第9章 上代語上二段活用動詞の終止形の遷移過程

§1 呼応潜顕

【1】近畿語で「オ乙」段音素節が二連続する語の用例

(1)「八十」は「やそ甲」、「三十」は「みそ甲」と読まれるが、「四十」は「ヨ乙ソ乙」と読まれる。

第5章で述べたように、「十」は、「四=ヨ乙」に続く場合には、近畿語で「ソ乙」と読まれる。その主因は次のようだと考える。「四」の母音部と「十」の母音部が影響し合い、それらに含まれる複数の音素が適宜に潜化・顕存し、双方とも「オ乙」段になる。その遷移過程は第5章で述べたとおりである。

(2)近畿語では「コソ」になり、東方語では「こソ」にもなる係助詞。

係助詞「コソ」は、近畿語では常に「コ乙ソ乙」になるが、東方語では「こ甲ソ乙」になることもある。
[近畿] 語れ語れト 詔らせコ乙ソ乙〈許曽〉 志斐いは奏せ[万3 ―237]
[東方] 忘ら来ばこ甲ソ乙〈古曽〉 汝を懸けなはめ[万14 ―3394東歌]
近畿語・東方語・九州語を合わせた上代語全体からいえば、係助詞「コソ」の第一音素節は「こ甲」にもなり、「コ乙」にもなる。
近畿語では、有坂秀世が「古代日本語に於ける音節結合の法則」(『国語音韻史の研究』所収)でいうように、「甲類のオ列音と乙類のオ列音とは、同一結合単位内に共存することが無い」。近畿語の「コ乙ソ乙」はその事例の一つである。
問題になるのは上代語全体からいえば「コソ」は「こ甲ソ乙」とも読めるのに、近畿語で「こ甲ソ乙」にならないのは何が原因なのか、ということである。
その主因は次のようだと考える。この係助詞の第一音素節は、本質的には「こ甲」にも「コ乙」にもなりうるが、近畿語においては、第一音素節の母音部と第二音素節「ソ乙」の母音部が影響し合い、それらに含まれる複数の音素が適宜に潜化・顕存し、双方とも「オ乙」段になる。

【2】「手端〈たなすゑ〉」の語素構成

手端〈多那須衛〉。[神代上紀第七段一書第二「手端」注]
「手端」の語素構成は、「手」に、助詞「ノ」と、“末”の意味の「端」が続いたものと考える。原義は“(左右の)手の先”である。「手ノ」は「てノ」とは読まれず、「たな〈多那〉」と読まれる。これは、「手」の母音部の音素群と助詞「ノ」の母音部の音素群が影響し合い、適宜に潜化・顕存して、双方とも「あ」段なったからだと考える。

【3】呼応潜顕

「コ乙ソ・こ甲ソ」や「たなすゑ」のように、日本語では(単数・複数の)音素が、近隣の(単数・複数の)音素と影響し合い、適宜に潜化・顕存することがある。この遷移を呼応潜顕と呼ぶ。
呼応潜顕の仕方は、時代により、地域により、音素配列により、異なる。


§2 「月」が「つキ」とも「つく」とも読まれる理由 WY

上二段活用は、その連用形などの語尾には「イ乙」段が現れるが、終止形の語尾は「う」段になる。その理由を説明するために、まず、「月」の本質音について述べる。「月」第二音素節も「イ乙段」にもなり、「う」段にもなるからである。

【1】「月」第二音素節は「キ乙」「く」に変化する

[近畿1] あらたまノ つキ乙〈都紀〉は来経行く[景行記歌28]
[近畿2] 近畿語では、ヤ行で始まる語が「月」に続くと「月」第二音素節は「く」になる。
今宵ノつくよ〈都久欲〉 霞みたるらむ[万20 ―4489]
[東方] 東方語では「月」は「つく」と読まれる。
小筑波ノ 嶺ロに月〈都久〉立し[万14 ―3395東歌]

【2】「月」第二音素節が「キ乙」「く」に変化する理由

「月」の本質音はTWKWYだと推定する。
[近畿1] 母音部WYで、WもYも母音素性を発揮し、融合して、{WY}になる。{WY}は「イ乙・い丙」を形成する。K{WY}は「キ乙」になる。
「キ乙=K{WY}」の発音は「き甲」を長音にしたものと考える(拙著『上代特殊仮名の本質音』第77章参照)。
月=TWKWY→つK{WY}=つキ乙
[近畿2] 「夜=よ」をYΟと表記して説明する。
月夜=TWKWY+YΟ→つKWYYΟ
KWYYΟでは、W直後のYは父音素性を発揮するようになり、直後の音素群と結合して、音素節YYΟを形成する(Yの後方編入)。
→つKW ―YYΟ
YYΟの父音部YYでは、前のYは顕存し、後のYは潜化する。
→つKW ―YyΟ=つKW ―YΟ=つくよ
[東方] 東方語では、TWの母音部Wと、KWYの母音部WYが呼応潜顕し、双方ともWになる。後者ではYが潜化する。
月=TWKWY→TWKWy=TWKW=つく


§3 上代語の上二段終止形「恋ふ」の遷移過程

【1】上二段活用動詞の語素構成

上二段動詞「恋ふ」の連用形は「こヒ乙」である。
恋ヒ〈故非〉忘れ貝 採らずは行かじ[万15 ―3711]
この連用形「恋ヒ乙」の現象音は「恋P{WY}」だと推定する。{WY}は、「月」第二音素節の現象音K{WY}の母音部と同一であり、「イ乙」を形成する。P{WY}は「ヒ乙」になる。
動詞「居」の活用語胴が「WY+YRY」であること、「見」の活用語胴が「MY+YRY」であること、そして「見」「居」および上二段動詞が現代語で上一段動詞になることを考え合わせて、「恋ふ」の活用語胴は「恋PW+YRY」だと推定する。「恋ふ」の動詞語素は「恋PW」であり、上二段活用の活用形式付加語素はYRYである。

【2】上二段終止形「恋ふ」の遷移過程

常人ノ 恋ふ〈故布〉ト言ふよりは[万18 ―4080]
上二段終止形「恋ふ」の語素構成は、動詞語素「恋PW」に、YRYと、終止形活用語足Wが続いたもの。
《終止》 恋ふ=恋PW+YRY+W→こPWYRYW
WYRYWでは、RはYに双挟され、そのYRYはWに双挟されている。この場合、上代語ではYはRを双挟潜化する。
→こPWYrYW=こPWYYW
WはYYを双挟潜化する。
→こPWyyW=こPWW
父音素にWWが続く場合、後のWは顕存し、前のWは潜化する。
→こPwW=こPW=こふ


§4 上二段動詞の語胴形YYぬ用法の遷移過程

上二段動詞にナ変完了助動詞「ぬ」が続く場合の遷移を述べる。
待ち恋ヒぬらむ〈故非奴良武〉[万15 ―3721]
「恋ヒぬ」は、動詞語素「恋PW」に、YRYと、完了助動詞「YYぬ」が続いたもの。
恋ヒぬ=恋PW+YRY+YYぬ→こPWYRYYYぬ
父音素またはYにWYRYが続き、その後さらに母類音素群が続く場合、WYR直後の母類音素群の音素配列により、上代語では次の遷移が起きる。
WYR直後の母類音素群に、複数の完母音素もYO¥もWWもない場合、YはRを双挟潜化する。
→こPWYrYYYぬ=こPWYYYYぬ
母音部WYYYYではWYが融合する。
→こP{WY}YYYぬ
{WY}YYYでは、融合音{WY}は顕存し、YYYは潜化する(融合音潜顕遷移)。
→こP{WY}yyyぬ=こP{WY}ぬ=こヒ乙ぬ