§1 動詞命令形の活用語足はYOY
(1)四段動詞命令形語尾は、え甲エ乙識別行の場合、近畿語では「え甲」段だが、東方語では「エ乙」段にもなる。
[近畿] 君が来まさば 鳴け甲〈奈家〉ト言ひし 山ほトトぎす
[万18 ―4050]
[東方] くつ履ケ乙〈波気〉 吾が夫[万14 ―3399東歌]
〔近畿語では「え甲」段になり、東方語では「エ乙」段にもなる〕という変化は、「家」第二音素節で起きる四つの変化の一部である。そこで、命令形の活用語足は「家」第二音素節の母音部YAYに似ると考える。
(2)上甲段・上二段・カ変・サ変・下二段動詞の命令形の末尾は「オ乙」段の「ヨ」「コ」「ロ」になることもある。
《上甲》 下にモ着ヨ乙〈伎余〉ト[万15 ―3585]
《上二》 起キヨ乙〈起余〉起キヨ 吾が一夜妻[万16 ―3873]
《カ変》 旅にてモ 喪無くは早コ乙〈許〉ト 吾妹子が 結びし紐は
[万15 ―3717]
[東方]《サ変》 何ド為ロ乙〈世呂〉トかモ[万14 ―3465東歌]
[東方]《下二》 紐絶イエば 吾が手ト付ケロ乙〈都気呂〉
[万20 ―4420防人歌]
そこで、命令形の活用語足はOに関係深いと考える。
(3)下二段動詞「努む」の命令形の末尾は「ヨ」にもなり、「エ乙」段の「メ」にもなる。
《下二》 心努メヨ乙〈都刀米与〉[万20 ―4466]
努メ乙〈都止米〉諸諸[仏足石歌18]
「ヨ乙」にも「エ乙」段にもなるという変化は、「良し」の「良」が「ヨ」にも「イエ」にもなるのに似る。「良」の本質音はYYOである。そこで、命令形の活用語足はYOに関係深いと考える。
(4)動詞命令形の活用語足はYOY。
以上のことから、動詞命令形の活用語足は、YAYにも、Oにも、YOにも関係深いことが解る。そこで動詞命令形の活用語足はYOYだと推定する。
§2 上代語の四段・ナ変・上二段の命令形の遷移過程
動詞命令形の語素構成は、活用語胴に、命令形の活用語足YOYが続いたものである。
【1】四段活用命令形の遷移過程
[近畿] 鳴け=鳴K+YOY→なKYOY
YOYは融合する。{YOY}は「え甲・え丙」を形成する。
→なK{YOY}=なけ甲
[東方] 履ケ=履K+YOY→はKYOY→はK{YOY}
東方語では、{YOY}末尾のYは潜化することがある。{YOy}は「エ乙・え丙」を形成する。
→はK{YOy}=はケ乙
【2】ナ変命令形の遷移過程
恋ヒ死なば 恋ヒモ死ね〈之祢〉トや[万15 ―3780]
動詞語素SYNに、WRWと、命令形の活用語足YOYが続く。
死ね=SYN+WRW+YOY→SYNWRWYOY
NWR直後の母類音素群の末尾に完母音素もYO¥もWWもない。この場合、WはRを双挟潜化する。その後、YOYが融合する。
→SYNWrWYOY→SYNWW{YOY}
母音部WW{YOY}では融合音{YOY}は顕存し、WWは潜化する。
→SYNww{YOY}=SYN{YOY}=しね
【3】上二段命令形の遷移過程
動詞語素「起KW」に、YRYと、YOYが続く。
起キヨ=起KW+YRY+YOY→おKWYRYYOY
YRYにYOYが続く場合、YOYの直前で音素節が分離する。WYRYでは、YはRを双挟潜化する。
→おKWYRY ―YOY→おKWYrY ―YOY
YOYでは、初頭のYが父音部になり、OYが母音部になる。OYでは完母音素Oは顕存し、兼音素Yは潜化する(上代語母類音素潜顕遷移)。
→おKWYY ―YOy→おKWYY ―YO
WYは融合する。
→おK{WY}Y ―YO→おK{WY}y ―YO=おキ乙ヨ乙
§3 上代語上甲段命令形の遷移過程
【1】上甲段命令形の遷移過程
[上代] 上甲段動詞命令形の語素構成は、動詞語素MYに、YRYと、命令形の活用語足YOYが続いたもの。
見ヨ=MY+YRY+YOY→MYYRYYOY→MYYRY ―YOY
→MYYrY ―YOy→MyyY ―YO=MY ―YO=み甲ヨ乙
【2】「良き人ヨく見」の「見」は命令形ではなく、終止形である
(1)「良き人ヨく見」。
「天皇ノ吉野宮に幸しし時ノ御製歌」がある。「天皇」は天武天皇だと考える。
良き人ノ 良しトヨく見て 良しト言ひし 吉野ヨく見ヨ 良き人ヨく見〈良人四来三〉[万1 ―27]
(2)沢瀉久孝の“「ヨく見」の「見」は命令形”説。
原文「良人四来三」は、かつては「良き人ヨく見つ」と読む説が有力であった。これに対し、沢瀉久孝は「芳野よく見よ良き人よく見」『万葉』2(1952年1月)で、“「ヨくみつ」と読んだのでは字余りになる”などの理由を挙げて「ヨく見つ」説を排した。そして「四来三」を「ヨくみ」と読み、「「見」の命令形が厳として存在してゐたのである」と断言し、“「ヨく見」の「見」は命令形”とする本居宣長の説が正しいとした。これ以後は沢瀉説が広く支持されるようになった。
沢瀉の論拠は確実か。
私は、「四来三」を「ヨくみ」と読むことについては本居・沢瀉の説に賛同する。だが、沢瀉の“一音節「見」という命令形がある”という説には賛同できない。同時に、“「ヨく見」の「見」は命令形である”という説には賛同できない。
私たちは動詞活用の規則性などについて知りたいと望んでいる。〔「良き人ヨく見」の「見」が命令形であるか否か〕を知りたい。そして〔命令形の後方にある「ヨ」は後から加えられたものか否か〕を知りたい。
ところが沢瀉は、真偽未決の命題“命令形末尾の「ヨ」は後から加えられたもの”について、「あとから加へられた」と想定する。さらに、“「ヨ」はまず上一段に付き、次に上二段・下二段に付いた”と想定する。このように想定したならば、“上代語下二段「努む」の命令形に「努メ」「努メヨ」の両形があるからには、上一段「見る」の命令形にも「見」「見ヨ」両形があって当然である”といえることになる。それで沢瀉は“一音節「見」という命令形が存在していた”という結論を導く。
だが、沢瀉は“「ヨ」は後から加えられた”という想定が真であることを論証していない。後から加えられたかどうかは不明であるのに、沢瀉は「あとから加へられた」ものとして、それを根拠に、「「見」の命令形が厳として存在」したという命題を導いた。この論法は論理学でいう先決問題要求の誤謬だから、是認できない。
論理学だけではない。日本語学の面から見ても、沢瀉の論法には不備な点がある。
沢瀉は、「ヨく見」の「見」が何形であるかを論じる際、終止形であるかどうかについて考察しない。「ヨく見」の「見」は文末にあるのだから、終止形の可能性は十分ある。だから、「ヨく見」の「見」を命令形だと論定する前に、まず、この「見」が終止形であるか否かを検討せねばならない。しかし、沢瀉はその検討をしなかった。
〔「良き人ヨく見」の「見」は終止形である〕という命題は、何の論難も受けず、健全なままで、真偽判定を待っている。
(3)「良き人ヨく見」の「見」は終止形である。
動詞「見」の六活用形のうち、一音節「み」であるものは、これまで論述してきたところでは、未然形・連用形・終止形の三つである。これらのうち、文末に置かれるべきものというと、終止形である。
そして、終止形だとすれば、「良き人ヨく見」は“良い人はよく見ている”の意味になり、何の支障も生じない。よって、「良き人ヨく見」の「見」は終止形だとするのが順当である。
(4)万27の歌意。
「良き人ヨく見」で、「見」が動詞終止形だから、その主語は「良き人」である。この文は“良い人は(今、吉野を)よく見ている”の意である。
「良き人ヨく見」の「良き人」は、具体的には誰のことか。
作者天武天皇の価値観では“天皇は最も良い人”であっただろう。だから、「良き人ヨく見」の「良き人」は天武天皇を含む。そして作者たる天武天皇は、この歌を詠んでいる時点において、吉野をよく見ていたであろう。よって、吉野をよく見ている「良き人」は作者天武天皇自身のことだと考える。
「吉野ヨく見ヨ」は、“諸人よ、吉野をよく見よ”の意である。“「良き人」たる私は今吉野をよく見ている。他の者も同様にせよ”という趣旨である。
「良き人ノ良しトヨく見て良しト言ひし」の「良き人」は誰か。
「良き人ヨく見」の「良き人」は天武天皇だから、同様に、「良し」といった「良き人」も天皇だと考える。上代の文献によれば吉野に行った天皇として、神武天皇・応神天皇・雄略天皇らがいる。これらのうち、天武天皇の胸中にあったのは神武天皇だと想像する。天武天皇が万27を詠んだ心は、“私は初代天皇たる神武天皇と同じように、吉野に来て、吉野をよく見て、「良し」と言った。神武から始まり、現在も続いている天皇の地位に、私は今いるのだ”ということだったろうと推察する。