§1 動詞未然形仮定用法の遷移過程
【1】動詞未然形の仮定用法・ずむ用法
動詞未然形は二つの用法に分類できる。
未然形仮定用法は、助詞に上接して仮定条件を表す用法である。
未然形ずむ用法は、「ず」「む」など助動詞に上接する用法である。
【2】仮名「波」は清音「は」を表す
橋本進吉は「奈良朝語法研究の中から」『橋本進吉博士著作集第五冊上代語の研究』150頁でいう、「万葉集に於ける文字の用法からすれば「波」は清音に用ゐるのが常であつて、唯、濁音に読まなければ意味が通じない場合に限つて濁音に読むのである。」
この見解を参考にして、私は動詞未然形仮定用法に付く「波」は清音「は」を表すと考える。
『古事記』『万葉集』の「婆」は濁音「ば」を表す。
【3】動詞未然形仮定用法では動詞に続く助詞は清音「は」にも濁音「ば」にもなる
動詞未然形仮定用法の用例を挙げる。
[上代1] 語尾に続く助詞が清音「は」になる。
《四段》 都に行かは〈由加波〉 妹に会ひて来ね[万15 ―3687]
《上二》 いかにして 恋ヒは〈古非波〉か妹に 武蔵野ノ うけらが花ノ 色に出ずあらむ[万14 ―3376或本。東歌]
《上乙》 潮ノ早干は〈非波〉 漁りしに[万18 ―4034]
[上代2] 語尾に続く助詞が濁音「ば」になる。
《四段》 天へ行かば〈由迦婆〉 汝が随に[万5 ―800]
《上甲》 都見ば〈弥婆〉 いやしき吾が身 また若ちぬ∧”し[万5 ―848]
《上二》 かく恋ヒば〈古非婆〉 老いづく吾が身 ケだし堪∧むかモ
[万19 ―4220]
《ナ変》 吾が群れ去なば〈伊那婆〉[記上巻歌4]
【4】動詞未然形仮定用法の遷移過程
(1)動詞未然形仮定用法の活用語足は∀M
動詞未然形仮定用法の活用語足は∀Mだと推定する。
未然形仮定用法に付く助詞「は」はP∀だと推定する。
未然形語尾に付く「ば」は、活用語足∀MのMと助詞「は=P∀」が縮約したもの。MPは融合してBになる。
(2)四段・上甲段・上二段・上乙段・ナ変の未然形仮定用法の遷移過程
[上代1] 未然形直後が清音「は」になる。
《四段》 行かは=行K+∀M+P∀→ゆK∀MP∀
∀の後には父音素がM・P二連続する。この場合、先頭のMは母音素∀に付着する場合もあり、付着しない場合もある。付着した場合には、K∀MとP∀の間で音素節が分離する。
→ゆK∀M ―P∀→ゆK∀m ―P∀=ゆK∀ ―P∀=ゆかは
《上二》 恋ヒは=恋PW+YRY+∀M+P∀→こPWYRY∀M ―P∀
WYR直後の母類音素群がY∀の場合、YはRを双挟潜化する。
WYは融合する。
→こPWYrY∀mは→ここP{WY}Y∀は→こP{WY}yαは
=こP{WY}は=こヒ乙は
《上乙》 干は=PWY+YRY+∀M+P∀→PWYYRY∀m ―P∀
WYYR直後の母類音素群がY∀の場合、YはRを双挟潜化する。
WYは融合する。
→PWYYrY∀は→P{WY}YY∀は→P{WY}yyαは
=P{WY}は=ヒ乙は
[上代2] 未然形直後が濁音「ば」になる。
《四段》 行かば=行K+∀M+P∀→ゆK∀MP∀
∀の後には父音素がM・P二連続するが、∀は弱母音素なのでMは∀に付着しないことが多い。K∀とMPの間で音素節が分離し、MPは融合する。
→ゆK∀{MP}∀→ゆK∀B∀=ゆかば
《上甲》 見ば=MY+YRY+∀M+P∀→MYYRY∀{MP}∀
MYYRY∀では、YはRを双挟潜化する。
→MYYrY∀B∀→MYYY∀ば
母音部YYY∀では、三連続するYの後に弱母音素∀がある。この場合、三連続するYはひとまず顕存し、∀は潜化する。
→MYYYαば=MYYYば→MyyYば=MYば=み甲ば
(3)ナ変の未然形仮定用法の遷移過程
《ナ変》 去なば=YYN+WRW+∀M+P∀→YYNWRW∀MP∀
NWRW∀では、WはRを双挟潜化する。MPは融合する。
→YYNWrW∀{MP}∀=YYNWW∀B∀
母音部WW∀では、末尾にある∀は顕存し、WWは潜化する。
→YY ―Nww∀ば=YY ―N∀ば=いなば
【5】大野晋の仮定用法am説と私の仮定用法∀M説との相違点
大野晋は「万葉時代の音韻」『万葉集大成第六巻』325頁で、仮定条件を表す要素をamだとする。私見はこの大野説に近いが、大きな相違点がある。大野が「あ」を表す音素はa一つしかないと考えるのに対し、私は「あ」を表す音素はAと∀の二つがあると考え、未然形には∀が用いられると考える。
四段活用の未然形仮定用法の場合だけを考えるなら、A・∀どちらが正当であるかを判断できない。だが、上甲段や上二段などの場合を考えれば∀が正当だと判断できる。
上甲段未然形仮定用法で、活用語足がAMだったとしよう。そうすると、上甲段「見」の未然形仮定用法は、
見ば=MY+YRY+AM+P∀→MYYRYA{MP}∀
RYAの母音部YAでは、上代語母類音素潜顕遷移により、完母音素Aは顕存し、兼音素Yは潜化する。Rは、その直後のYが潜化したので、双挟潜化されずに顕存する。
→MYYRyAB∀=MYy ―RAば=みらば
で、「みらば」になる。これは文献事実に反する。
未然形仮定用法の活用語足を∀Mだとすれば、上述のように、上甲段「見」の未然形仮定用法は「みば」になり、文献事実に合致する。
§2 動詞未然形ずむ用法の遷移過程
【1】近畿語の四段・ナ変・上甲段・上二段・上乙段の未然形ずむ用法の用例
(1)動詞未然形が否定助動詞「ず」に続く。
《四段》 為し人ノ 面てモ知らず〈始羅孺〉[皇極3年 紀歌111]
《ナ変》 早返りませ 恋ヒ死なぬ〈之奈奴〉間に[万15 ―3747]
《上甲》 いまだ見ぬ〈見奴〉 人にモ告ゲむ[万17 ―4000]
《上二》 恋ヒ乙ぬ〈古非奴〉日は無し[万15 ―3670]
《上乙》 吾が泣く涙 いまだ干なくに〈飛那久尓〉[万5 ―798]
(2)動詞未然形が意志助動詞「む」に続く。
《四段》 向会∧を行かむ〈由加牟〉[允恭記歌87]
《上甲》 京師を見む〈美武〉ト 思ひつつ[万5 ―886]
《上二》 かくや恋ヒむモ〈姑悲武謀〉[斉明紀7年 紀歌123]
【2】近畿語の四段・ナ変・上甲・上二・上乙の未然形ずむ用法の遷移過程
(1)動詞未然形の活用語足。
同じ未然形でも、仮定用法とずむ用法では活用語足は異なる。動詞未然形ずむ用法の活用語足は∀だと推定する。
(2)動詞未然形に否定助動詞「ず」が続く用法。
動詞の活用語胴に、活用語足∀と「ず」が続く。
《四段》 知らず=知R+∀+ず→しR∀ず=しらず
《ナ変》 死なぬ=SYN+WRW+∀+ぬ→SYNWRW∀ぬ
→SYNWrW∀ぬ=SYNWW∀ぬ
→SYNww∀ぬ=SYN∀ぬ=しなぬ
《上甲》 見ぬ=MY+YRY+∀+ぬ→MYYRY∀ぬ
YYRY∀では、YはRを双挟潜化する。
→MYYrY∀ぬ=MYYY∀ぬ→MYYYαぬ→MyyYぬ=み甲ぬ
《上二》 恋ヒぬ=恋PW+YRY+∀+ぬ→こPWYRY∀ぬ
WYRY∀では、YはRを双挟潜化する。WYは融合する。
→こPWYrY∀ぬ→こP{WY}Y∀ぬ→こP{WY}yαぬ
=こP{WY}ぬ=こヒ乙ぬ
《上乙》 干なく=PWY+YRY+∀+なく→PWYYRY∀なく
WYYRY∀ではYはRを双挟潜化する。WYは融合する。
→PWYYrY∀なく→P{WY}YY∀なく→P{WY}yyαなく
=P{WY}なく=ヒ乙なく
(3)動詞未然形に意志助動詞「む」が続く用法。
動詞の活用語胴に、活用語足∀と、「む」が続く。
《四段》 行K+∀+む→ゆK∀む=ゆかむ
《上甲》 見む=MY+YRY+∀+む→MYYRY∀む
→MYYrY∀む→MYYYαむ=MyyYむ=MYむ=み甲
《上二》 恋ヒむ=恋PW+YRY+∀+む→こPWYRY∀む
→こPWYrY∀む→こP{WY}yαむ→こP{WY}む=こヒ乙む
【3】東方語で上二段「恋ふ」が「ず」に上接する場合に語尾が「ひ甲」になる遷移過程
《上二》 筑波ノ山を 恋ひ甲ず〈古比須〉あらメかモ[万20 ―4371防人歌]
恋ひず=恋PW+YRY+∀+ず→こPWYrY∀ず=こPWYY∀ず
東方語では、母音部WYY∀で、二連続するYはひとまず顕存し、W・∀が潜化することがある。
→こPwYYαず→こPyYず=こPYず=こひ甲ず