§1 「網」第二音素節の母音部¥は「い甲」を形成する
【1】「い甲」を形成する音素には潜化しやすいものがある
(1)「網」第二音素節母音部が潜化する。
「網」は、後続語と熟合しない場合、「あみ甲」と読まれる。
片淵に 網〈阿弥〉張り渡し[神代下紀第九段一書第一 紀歌3]
「網」が後続語と熟合した場合、「み甲」が脱落し、後続の音素節が濁音になる。「網代=あみ甲+しロ」なら「あじロ」になる。
あじロ〈阿自呂〉人 船呼ばふ声[万7 ―1135]
これは、「あみ甲」の「み」の母音部が潜化し、父音部Mが直後の「し」の父音部Sと融合して濁音「じ」の父音部Zになったのである。
(2)「弓」第二音素節母音部が潜化する。
「弓」は、後続語と熟合しない場合、「ゆみ甲」と読まれる。
立てる 梓弓〈由美〉[応神記歌51]
「弓」が後続語と熟合した場合、「み甲」が脱落し、後続音素節が濁音になることがある。「弓束=ゆみ甲+つか」が「ゆづか」になるのがその事例である。
愛し妹を 弓束〈由豆加〉並∧”置き[万14 ―3486東歌]
これは、「ゆみ甲」の「み」の母音部が潜化し、父音部Mが「つ」の父音部Tと融合して濁音「づ」の父音部Dになったのである。
【2】「網」「弓」の第二音素節母音部は¥
「網」第二音素節たる「み甲」や「弓」第二音素節たる「み甲」の母音部のように、「い甲」段音素節の母音部は、〔父音素と父音素に挟まれていて、それら二つの父音素が融合すれば濁音を形成できる〕場合には、潜化することがある。
〔「い甲・い丙」を形成できる音素であって、父音素と父音素に挟まれている場合に潜化することがある〕音素を¥と定める。¥が潜化した場合にはjと記す。
¥・jを用いて、「網代」が「あじロ」になる遷移過程緯を音素式で説明する。「代」の「し」はSYだと推定する。
網代=あみ甲+しロ=あM¥+SYロ→あM¥SYロ
MとSの間にある¥は潜化する。MSは融合してZになり、ザ行を形成する。
→あMjSYロ=あMSYロ→あ{MS}Yロ→あZYロ=あじロ
§2 「寄す」第一音素節¥YO・「帯」第一音素節¥¥O
【1】「寄す」第一音素節・助詞「ヨ」は近畿語では常に「ヨ乙」だが、東方語(駿河)では「イエ」になることがある
(1)「寄す」第一音素節。
[近畿] 沖つ波 寄せ〈余勢〉来る玉藻[万17 ―3993]
[東方] 撃ちイエする〈江須流〉 駿河ノ嶺らは
[万20 ―4345防人歌、駿河。「撃ち寄する」が「駿河」にかかる理由は拙著『ちはやぶる・さねかづら』第1章参照]
(2)助詞「ヨ乙」。
[近畿] 吾子ヨ乙〈予〉 今だにモ 吾子ヨ乙〈予〉[神武即位前 紀歌10]
[東方] 父母イエ〈江〉 斎ひて待たね[万20 ―4340防人歌、駿河]
【2】「寄す」第一音素節と助詞「ヨ」が近畿語で「ヨ乙」、東方語で「イエ」になる理由
近畿語「良」が「ヨ」にも「イエ」にもなることを参考にしよう。第2章で述べたように、「良し」第一音素節はYYOである。YYOは、YYが父音部になれば、YyOを経て、「ヨ乙」になる。Yが父音部になれば、Y{YO}すなわち「イエ」になる。
このことから類推して、近畿語で「ヨ乙」になり、東方語では「イエ」になる「寄す」第一音素節の本質音は¥YOだと推定する。
[近畿] ¥Yが父音部になり、Oが母音部になる。父音部¥Yでは、¥は潜化し、Yは顕存する。
寄す=¥YOす→jYOす=YOす=ヨ乙す
[東方] ¥が父音部になり、YOが母音部になる。父音部¥は、東方語においてのみ顕存し、ヤ行を形成する。母音部YOは融合して「エ乙・え丙」を形成する。¥{YO}は¥行(ヤ行)・エ段の「イエ」になる。
寄す=¥YOす→¥{YO}す=イエす
助詞「ヨ」は¥YOだと推定する。その遷移過程は「寄す」第一音素節同一なので説明は省略する。
【3】「帯」第一音素節が近畿語で「お」、東方語で「イエ」になる理由
「帯」第一音素節は近畿語では「お」だが、東方語では「イエ」になることがある
[近畿] 大王ノ 御帯〈於寐〉ノしつ服 結び垂れ[武烈即位前紀歌93]
[東方] イエび〈叡比〉は解かなな
[万20 ―4428昔年防人歌。「解かなな」は“解かずに”の東方語]
「帯」第一音素節の本質音は¥¥Oだと推定する。
[近畿] 近畿語では、Oの直前にある¥¥は二つとも潜化する。
帯=¥¥Oび→jjOび=Oび=おび
[東方] 東方語では、¥¥のうち、前の¥は父音素性を発揮し、ヤ行を形成する。後の¥は母音素性を発揮し、直後のOと融合する。{¥O}は「エ乙・え丙」を形成する。
帯=¥¥Oび→¥{¥O}び=イエび
【4】¥の性質
(1)¥の、近畿語・東方語共通の性質は次のようである。
父音素に¥が続き、その直後で音素節が分離する場合、¥は「い甲・い丙」を形成する。
母音部が複数連続する¥だけである場合、通例は末尾の¥のみが顕存して他の¥は潜化するが、時代や地域によっては、複数連続する¥がすべて顕存して融合することもある。
¥とその直後の父音素が父音部になった場合、¥は潜化し、父音素は顕存する。
(2)近畿語での¥には次の性質がある。
音素節の初頭に¥または¥¥があり、その後に完母音素が続く場合、¥・¥¥は潜化する。
(3)東方語での¥には次の性質がある。
母音部にある¥Oは融合して「エ乙・え丙」を形成することがある。
父音部の¥は顕存して父音素性を発揮し、ヤ行を形成することがある。
【5】遊兼音素¥
¥は父音素性と母音素性を兼ね備えるから、兼音素である。
兼音素¥を遊兼音素と呼ぶ。