§1 「わ」にも「あ」にもなる「吾」の父音部はΩ
【1】「若し」「忘る」の第一音素節WAは「わ」になるが、「あ」にはならない
ワ行音素節の父音部になる音素は二つある。
一つは、〔「あ」に変化しない「わ」〕の父音部たる音素である。
もう一つは〔「あ」に変化することもある「わ」〕の父音部たる音素である。
「若し」「忘る」第一音素節は常に「わ」であり、「あ」にはならない。〔「あ」に変化しない「わ」〕の父音部たる音素をWと定める。
【2】「わ」にも「あ」にもなる「吾」の父音部はΩ
一人称代名詞「吾」「吾れ」の第一音素節は「わ」にも「あ」にもなる。
[上代1] わ〈和〉が着せる 襲ひノ裾に[景行記歌28]
われ〈和礼〉は忘れじ[神武記歌12]
[上代2] あ〈阿〉はモヨ 女にしあれば[記上巻歌5]
あれ〈阿礼〉コソは 齢ノ長人[仁徳記歌71]
〔「あ」に変化しない「わ」〕の父音部になる音素をWと定めたから、〔「わ」にも「あ」にもなる「吾」〕の父音部をWとすることはできない。
従来、ワ行を形成する音素はW(あるいはw)だけしかないとされている。だがそれでは〔「わ」にも「あ」にもなる「吾」〕を、音素記号で表記できない。そこで従来認識されていなかった音素を提起する。
「吾」の父音部たる音素は、顕存して父音素性を発揮した場合にはAに上接して「わ」を形成できるが、潜化した場合には「わ」を形成しない。この音素をΩと表記する。
Ωが潜化した場合はωと表記する。
本質音がΩAである音素節は、Ωが顕存した場合にはΩ行(ワ行)・あ段の現象音「ΩA=わ」になり、Ωが潜化した場合には、現象音は「ωA=A=あ」になる。
父音部たるΩはAに上接する場合のみ顕存してワ行を形成できる。
§2 「思ひ」の第一音素節はΩ
【1】「下思ひ」で「お」が脱落して「したモひ」になる理由
(1)「思ふ」が「下」に続くと「お」は脱落する。
「思ふ」は、直前の語と熟合しない場合には「おモふ」と読まれる。
うるはしみ おモふ〈意母布〉[応神記歌46]
「思ふ」が「下」に下接・熟合すると「お」は脱落する。
下思ひ〈之多毛比〉に 嘆かふ吾が兄[万17 ―3973]
仮に「思ひ」の「お」がOだったとしよう。「下」は「しTA」だと考えられるので、
下思ひ=しTA+Oモひ→しTAOモひ
母音部AOでは、完母音素が二連続するので、近畿語完母潜顕法則により、前方にある完母音素Aは潜化し、後方にある完母音素Oは顕存する。
→しTaOモひ=しTOモひ=しトモひ
で、「しトモひ」になる。だがこれは文献事実に反する。
仮に「下」が「しT∀」だったとしても、「しT∀Oモひ」では、弱母音素∀は潜化し、完母音素Oは顕存するから、「しトモひ」になる。これも文献事実に反する。
よって、「思ひ」の「お」はOではないと判断できる。
Ωの性質について、次のとおり考える。Ωは兼音素であり、父音素性を発揮した場合には「わ」の父音部になることができるが、母音素性を発揮した場合には「オ乙・お丙」を形成する。Ωが単独で音素節を形成すればア行の「お」になる。「思ひ」第一音素節の「お」はΩである。
下思ひ=しTA+Ωモひ→しTAΩモひ
母音部AΩでは、完母音素Aは顕存し、兼音素Ωは潜化する(上代語母類音素潜顕遷移)。
→しTAωモひ=しTAモひ=したモひ
【2】惑兼音素Ω
兼音素Ωを惑兼音素と呼ぶ。