§1 近畿語「過ぐす」が東方語で「過ごす」になる理由
(1)上二段動詞「過ぐ」。
新治 筑波を過ギ〈須疑〉て [景行記歌25]
動詞「過ぐ」は上二段だから、その動詞語素は「すGW」である。
(2)四段動詞は近畿語で「過ぐす」、東方語で「過ごす」、平安語・現代語で「過ゴす」になる(平安語・現代語では「ご」には甲類・乙類の識別はないが「すゴす」の「ゴ」は「ゴ乙」相当だと考える)。
[近畿] 思ひ過ぐさず〈須具佐受〉 行く水ノ音モさやケく[万17 ―4003]
[東方] 愛しけ子ロを 思ひ過ご甲さむ〈須吾左牟〉[万14 ―3564東歌]
[平安・現代] 平安時代には、「おほとのごもりすぐして」[源氏物語桐壺]のように「過ぐす」もあるが、「過ゴす」の用例が現れる。
いままて すごし侍りつるなり[竹取物語]
現代語では「過ゴす」が用いられる。
(3)上代近畿語「過ぐす」が上代東方語で「過ご甲す」に、平安語・現代語で「過ゴす」になる遷移過程。
近畿語「過ぐす」・東方語「過ごす」・平安語・現代語「過ゴす」の活用語胴は同一で、上二段「過ぐ」の動詞語素「過GW」に、活用形式転換語素ΩWSが続いたものだと推定する。
[近畿] 過ぐさず=過GW+ΩWS+∀+ず→すGWΩWS∀ず
近畿語では、父音素にWΩWが続く場合、通例はWがΩを双挟潜化する(呼応潜顕が起きた場合にはΩが顕存してWが二つとも潜化する)。
→すGWωWさず=すGWWさず→すGwWさず=すGWさず=すぐさず
[東方] 過ごさむ=過GW+ΩWS+∀+む→すGWΩWS∀む
東方語では、母音部のWΩWは融合して「お甲」を形成することがある。
→すG{WΩW}S∀む=すご甲さむ
[平安・現代] 過ゴす=過GW+ΩWS+W→すGWΩWSW
平安語・現代語では、WΩWで、Ωは顕存し、Wは二つとも潜化する。
→すGwΩwSW=すGΩSW=すゴす
§2 助詞「う」および動詞の語素形う用法「行くさ」「来さ」
【1】「来さ」は動詞語素K¥O¥に助詞「う=WΩW」と「さ」が続いたもの
「行くさ」「来さ」という語句がある。“行く際”“来る場合”の意味である。
青海原 風波なびき 行くさ〈由久左〉来さ〈久佐〉 つつむ事無く 船は速けむ[万20 ―4514]
「行くさ」「来さ」の「行く」「来」は表層の形だけを見るなら、終止形である。しかし、終止形の本質は文を終止することだから、接尾語「さ」を修飾するとは考えられない。「行くさ」「来さ」の「行く」「来」は、本質的には終止形ではないと考える。
「行くさ」「来さ」の語素構成は動詞語素に助詞「う」と接尾語「さ」が続いたものであり、助詞「う」には“……の”の意味があるので“行く際”“来る場合”の意味になると考える。
【2】「行くさ」「来さ」の遷移過程
助詞「う」の本質音はWΩWだと推定する。
行くさ=行K+WΩW+さ→ゆKWΩWさ
WはΩを双挟潜化する。
→ゆKWωWさ→ゆKwWさ=ゆKWさ=ゆくさ
来さ=K¥O¥+WΩW+さ→K¥O¥WωWさ=K¥O¥WWさ
母音部¥O¥WWでは、末尾で二連続するWはひとまず顕存し、¥O¥は潜化する。
→KjojWWさ=KWWさ→KwWさ=KWさ=くさ
動詞語素に、助詞「う」が続いて後続語を修飾する用法を動詞の語素形う用法と呼ぶ。
§3 近畿語「来るまで」と東方語「来まで」
【1】近畿語では「来るまで」、東方語では「来まで」
(1)近畿語では動詞は連体形で助詞「まで」に上接する。
い泊つるまで〈伊波都流麻泥〉に[万18 ―4122]
日ノ暮るるまで〈久流留麻弖〉[万4 ―485]
カ変動詞の場合はどうか。近畿語では、「来」が「まで」に上接する場合、連体形「来る」になる。
吾が来るまで〈久流麻?〉に[万20 ―4408]
(2)東方語では、「来」が「まで」に上接すると「くまで」になる。
東方語では、「来」が「まで」に上接する場合、連体形は用いられず、すべて「くまで」になる[万20 ―4339・4340・4350・4372・4404]。
帰り来〈久〉までに[万20 ―4339防人歌]
どうして東方語では、「まで」に上接する「来」は「く」になるのか。
【2】東方語での「来まで」の語素構成・遷移過程
東方語「来まで」の「く」の語素構成は、近畿語「来さ」の「く」と同一で、「K¥O¥+WΩW」だと考える。
[東方] 来まで=K¥O¥+WΩW+まで→K¥O¥WωWまで
=K¥O¥WWまで→KjojWWまで→KwWまで=KWまで=くまで
近畿語では、「来」が「さ」に上接する場合には「K¥O¥+WΩW」を用いるが、東方語では「来」が「まで」に上接する場合に「K¥O¥+WΩW」を用いるのである。