第37章 「射ゆ猪」の語素構成

【1】「射ゆ猪」の用例

射ゆ〈伊喩〉猪を 繋ぐ川傍ノ 若草ノ 若くありきト 吾が思はなくに[斉明紀4年 紀歌117]
射ゆ猪〈所射鹿〉を 繋ぐ川傍ノ  和草ノ  身ノ若か∧に さ寝し子らはモ[万16 ―3874]

【2】「射ゆ猪」についての従来説

受動を表す「所射」という表記および紀歌117の歌意からすると、「射ゆ猪」は“(弓矢で)射られた猪”であり、「射ゆ」は受動の意味を含む。受動の意味を含む「射ゆ」の語素構成はどのようであるか。
濱田敦は「助動詞」『万葉集大成第六巻』88頁で「射ゆ猪」の「ゆ」について、「もと四段形式であつたものが(中略)下二段形式に移行したもので、「射ゆ」はその四段形式の名残りである」という。
濱田は“「射ゆ猪」の「射ゆ」は元来は四段活用である”というが、四段活用の動詞は受動の意味を持たない。よって私は濱田敦節には従えない。
『時代別国語大辞典上代編』は「いゆ」の項で、「射ゆ」を「動下二」とし、「射られる」の意味だとし、「イユは動詞射ル(上一段)に受身の助動詞ユが結びついて成立した語であろう。(中略)イユシシは直接体言に続く例かと考えられる」と説明する。
だが、「射」に受動を表す助動詞「ゆ」が続いたものならば、体言「猪」を修飾するのだから、連体形「射ゆる」になるのが当然である。
どうして終止形の形の「射ゆ」が「猪」を修飾できるのか。
同書は「イユシシは直接体言に続く例かと考えられる」という。だが、「イユシシは直接体言に続く」というのは私たちが疑問としている文献事実そのものであって、解決案ではない。

【3】「射ゆ猪」の語素構成・遷移過程

「射ゆ猪」は、表面的には、動詞終止形が後続の体言を修飾する形である。同様の形として「出づ水」(泉)・「垂る水」がある。「出づ水」・「垂る水」の語素構成は、『上代特殊仮名の本質音』第88章で述べたように、動詞語素「出D」「垂R」に助詞「う=WΩW」と体言「水」が続いたものである。
そこで、「射ゆ猪」の語素構成は、「出づ水」・「垂る水」と同様、動詞語素に助詞「う=WΩW」と体言が続いたものだと考える。
上甲段「射」の動詞語素は、上甲段「見」「着」の動詞語素がMY・KYであることから類推して、YYだと推定する。
射ゆ猪=YY+WΩW+猪→YYWΩW猪→YYWωW猪=YYWW猪
YとYWWの間で音素節が分離する。
YWWではYが父音部になり、WWが母音部になる。
→Y ―YWW猪→い ―YwW猪=い ―YW猪=いゆしし

【4】「動詞語素+WΩW+体言」用法の動詞には自発・受動の意味を持つものがある

「出づ水=出D+WΩW+水」は“人が出す水”ではなく、“自然に出てくる水”である。また、「垂る水=垂R+WΩW+水」は“人が垂れおとす水”ではなく、“自然に垂れおちる水”である。よって、「動詞語素+WΩW+体言」用法の動詞は自発の意味を持つといえる。
自発の意味を添える語には助動詞「ゆ・らゆ・る」があるが、「ゆ・らゆ・る」は受動の意味も持つ。このことから推定して、自発の意味を持つ「動詞語素+WΩW+体言」用法の動詞は受動の意味も持つと考える。「射ゆ猪」の「射ゆ」は「動詞語素+WΩW+体言」用法だから受動の意味を持つとしてよい。「射ゆ猪」は“射られた猪”の意味である。