§1 過去助動詞「き」の遷移過程
【1】継続助動詞「ふ」および動詞に過去助動詞「き」が続く用例
(1)継続助動詞「ふ」に過去助動詞「き」の終止形「き」が続く用例。
神遣らひ 遣らひき〈夜良比岐〉[古事記上巻]
(2)動詞に過去助動詞「き」が続く用例。
助動詞「き」は、カ変・サ変以外の動詞には、その連用形の形に続く。
助動詞「き」がカ変・サ変に続く場合には次のように接続する。
助動詞「き」の未然形ずむ用法「け」はカ変の連用形の形に続く。「き」の連体形「し」・已然形「しか」はサ変・カ変の未然形の形に続く。
① 動詞に「き」の連体形「し」が続く。
《四段》 問ひし〈斗比斯〉君はモ[景行記歌24]
《ナ変》 立ち別れ 去にし〈伊尓之〉宵より[万14 ―3375東歌]
《上甲》 此くモがト 吾が見し〈美斯〉子に[応神記歌42]
《上二》 見まく欲り 吾が待ち恋ヒし〈恋之〉 秋萩は[万10 ―2124]
《下二》 菅畳 いや清敷きて 吾が二人寝し〈泥斯〉[神武記歌19]
《カ変》 出でて来し〈許之〉 吾れを送るト[万17 ―3957]
《サ変》 吾れを引き入れ 為し〈制始〉人ノ[皇極3年 紀歌111]
② 動詞に「き」の未然形仮定用法「せ」が続く。
《四段》 たぢひ野に 寝むト知りせば〈斯理勢婆〉 立つ薦モ 持ちて来ましモノ 寝むト知りせば〈斯理勢婆〉[履中記歌75]
③ 動詞に「き」の未然形ずむ用法「け」が続く。
「けむ」については、これを一つの単語と見る説もあるが、『時代別国語大辞典上代編』の「けむ」の項にある考見「ケムは、過去の助動詞キの未然形ケに推量の助動詞ムの接したものかと考えられている」に従って論を進める。
《四段》 天に飛び上がり 雪ト降りけむ〈敷里家牟〉[万17 ―3906]
《カ変》 何しか来けむ〈来計武〉 君モあらなくに[万2 ―163]
④ 動詞に「き」の已然形接続用法「しか」が続く。
《四段》 人来至れりト 言ひしかば〈伊比之可婆〉[万15 ―3772]
⑤ 動詞に「き」の已然形コソや用法「しか」が続く。
《サ変》 昨日コソ 船出は為しか〈勢之可〉[万17 ―3893]
《カ変》 妹にコソ 相ひ見に来しか〈許思可〉[万14 ―3531東歌]
【2】過去助動詞「き」の助動詞語素はSYK
過去助動詞「き」の助動詞語素はSYKだと推定する。
【3】過去助動詞「き」に上接する動詞・助動詞の活用形は語素形Y用法
過去助動詞「き」に上接する動詞・助動詞の活用形は語素形Y用法である。
【4】「動詞+継続助動詞ふ」に過去助動詞終止形「き」が続く遷移過程
過去助動詞「き」の終止形の活用語足は¥だと推定する。
遣らひき=遣R+OAYP+Y+SYK+¥→やRoAyPYSYK¥
YSYK¥では、YはSを双挟潜化する。
→やRAPYsY ―K¥→やらPyY ―K¥=やらPY ―K¥=やらひ甲き甲
【5】連体形「し」の遷移過程とYSYKY呼応潜顕
過去助動詞「き」の連体形の活用語足はYだと推定する。
(1)「四段動詞+連体形し」の遷移過程とYSYKY呼応潜顕。
「問ひし」は、動詞語素「問P」に、語素形Y用法の活用語足Yと、SYKと、その連体形の活用語足Yが続いたもの。
《四段》 問ひし=問P+Y+SYK+Y→とPYSYKY
PYSYKYではYSYKYの直前にSはない。この場合、次のように遷移する。
〔YSYKYの直後で音素節が分離する〕場合、および〔YSYKYの直後の母類音素群に完母音素がない〕場合には、SとKは呼応潜顕する。
KはYに双挟潜化される。これに呼応して、Sは双挟潜化されずに顕存する。
この遷移をYSYKY呼応潜顕と呼ぶ。
→とPYSYkY→とPY ―SYY→とPY ―SyY=とひ甲し
(2)ナ変・下二段・サ変・カ変に連体形「し」が続く遷移過程。
《ナ変》 「去ぬ」の動詞語素YYNに、活用語足Yと、SYKと、その連体形の活用語足Yが続く。語素形Y用法なので、動詞の活用形式付加語素は用いられない。
去にし=YYN+Y+SYK+Y→いNYSYKY
→いNYSYkY→いNY ―SyY=いにSY=いにし
《上甲》 見し=MY+Y+SYK+Y→MYYSYKY
→MYYSYkY→MyY ―SyY=MY ―SY=み甲し
《上二》 恋ヒし=恋PW+Y+SYK+Y→こPWYSYKY
→こPWY ―SYkY→こP{WY} ―SyY=こヒ乙し
《下二》 寝し=N¥Ω¥+Y+SYK+Y→N¥Ω¥YSYkY
→N{¥Ω¥}Y ―SyY→N{¥Ωj}y ―SY=ねし
《サ変》 動詞語素SYOYに、活用語足Yと、SYKと、その連体形の活用語足Yが続く。
為し=SYOY+Y+SYK+Y→S{YOY}YSYkY
→S{YOY}y ―SyY=S{YOY} ―SY=せし
《カ変》 来し=K¥O¥+Y+SYK+Y→K¥O¥YSYkY
母音部¥O¥Yでは、完母音素Oは顕存し、他は潜化する。
→KjOjy ―SyY→KO ―SY=コ乙し
【6】未然形「せ」の遷移過程
(1)未然形仮定用法。
助動詞「き」の未然形仮定用法の活用語足はY∀YMだと推定する。
《四段》 知りせば=知R+Y+SYK+Y∀YM+P∀
→しRYSYKY∀YMP∀
YSYKY直後の母類音素群に完母音素はないので、Sは顕存し、KはYに双挟潜化される(YSYKY呼応潜顕)。Y∀Yは融合する。
→しRY ―SYkY∀Y{MP}∀→しりSYY∀Yば
→しりSY{Y∀Y}ば→しりSy{Y∀Y}ば=しりせば
(2)未然形ずむ用法。
助動詞「き」の未然形ずむ用法の活用語足はYOYだと推定する。
《四段》 降りけむ=降R+Y+SYK+YOY+MΩ+AU
→ふRYSYKYOY ―MωaU
YSYKY直後の母類音素群にOYがある。この場合、Kは顕存し、SはYに双挟潜化される。YOYは融合する。
→ふRYsY ―K{YOY}む→ふRyY ―K{YOY}む=ふりけ甲む
《カ変》 来けむ=K¥O¥+Y+SYK+YOY+MΩ+AU
→K¥O¥YSYKYOY ―MωaU
YSYKY直後にOYがあるので、SはYに双挟潜化される。
→K¥O¥YsY ―K{YOY}む=K¥O¥YY ―K{YOY}む
母音部¥O¥YYでは、末尾で二連続するYYはひとまず顕存し、¥O¥は潜化する。
→KjojYY ―K{YOY}む=KyYけ甲む=き甲け甲む
【7】已然形「しか」の遷移過程
(1)已然形接続用法。
助動詞「き」の已然形接続用法の活用語足は¥AYMだと推定する。
《四段》 言ひしかば=言P+Y+SYK+¥AYM+P∀
→いPYSYK¥AY{MP}∀
父音素にYSYK¥AYが続く場合、SYの前後で音素節が分離する。
¥AYでは、呼応潜顕しない場合、Aは顕存し、¥・Yは潜化する。
→いPY ―SY ―KjAyば→いひ甲しKAば=いひ甲しかば
(2)已然形コソや用法。
助動詞「き」の已然形コソや用法の活用語足は¥AYだと推定する。
《サ変》 為しか=SYOY+Y+SYK+¥AY
→SYOYY ―SY ―K¥AY→S{YOY}YしKjAy
→S{YOY}yしKA=せしか
《カ変》 来しか=K¥O¥+Y+SYK+¥AY
→K¥O¥Y ―SY ―K¥AY→KjOjyしKjAy
=KOしKA=コ乙しか
§2 否定助動詞「ず」に「き」が続く遷移過程
(1)否定助動詞「ず」に終止形「き」が続くと「ずき」になる。
吾れは思はずき〈不念寸〉[万4 ―601]
「思はずき」は、「思P」に、∀と、N¥とその段付加語素SUと活用語足Y、そしてSYKとその終止形の活用語足¥が続いたもの。
思はずき=思P+∀+N¥+SU+Y+SYK+¥
→思P∀NjSUYSYK¥→思は{NS}UYSYK¥
YはSを双挟潜化する。
→思はZUYsY ―K¥→思はZUYY ―K¥
母音部UYYでは、完母音素Uは顕存し、YYは潜化する。
→思はZUyy ―K¥=おモはずき甲
(2)「ず」に、「き」の已然形接続用法「け」が続くと「ずけ」になる。
白腕 枕かずけば〈麻迦受祁婆〉コソ 知らずトモ 言はメ
[仁徳記歌61。仁徳紀30年 紀歌58にも「まかずけば〈摩箇儒鶏麼〉」とある。「枕かずけば」の「け」が過去助動詞「き」の已然形である理由については『古事記歌謡全解』記歌61の段参照]
枕かずけば=枕K+∀+N¥+SU+Y+SYK+¥AYM+P∀
→まK∀NjSUYSYK¥AY{MP}∀
→まか{NS}UYsY ―K¥AYば→まかZUYY ―K¥AYば
UYYとK¥AYは呼応潜顕する。前者では完母音素Uは顕存し、YYは潜化する。これに呼応して、¥AYは三音素とも顕存して融合する。
→まかZUyy ―K{¥AY}ば
{¥AY}は「え甲」を形成する。
=まかずけ甲ば
§3 東方語「固メトし」の遷移過程
[東方] 下二段活用の完了助動詞「つ」が過去助動詞「き」に上接する場合、東方語では「て」にならずに「ト乙」になることがある。
固メトし〈加多米等之〉 妹が心は[万20 ―4390防人歌]
固メトし=固M+¥Ω¥+WRW+¥¥+T¥Ω¥+Y+SYK+Y
→固M¥Ω¥WrW¥ ―¥T¥Ω¥YSYkY
→固M{¥Ωj}wwj ―jT¥Ω¥YSYY
東方語では母音部¥Ω¥Yと母音部YYが呼応潜顕することがある。後者では前方のYが潜化する。これに呼応して前者では二つの¥とYは潜化し、Ωは顕存する。
→固M{¥Ωj} ―TjΩjySyY→固M{¥Ωj} ―TΩSY=かたメ乙ト乙し