§1 日本書紀の「迷」はすべて「メ乙」である
【1】上代特殊仮名「迷」は「メ乙」「め甲」両用だとされている
上代特殊仮名の甲類・乙類の書き分けについて、『日本古典文学大系万葉集一』55頁の「校注の覚え書」は、「完全に言い分け聞き分け、従って文字の上でも書き分けていたことが分ったのである。」という。だが、このように断言するためには、解決せねばならない問題が一つある。
上代語では「伎」はすべて「き甲」を表し、「キ乙」を表すことはない。「寄」はすべて「キ乙」を表し、「き甲」を表すことはない。「伎」「寄」については“完全に書き分けられている”といってよい。
では、「迷」はどうか。同書には「奈良時代の音節及び万葉仮名一覧」があるが、その表(34頁)では、『日本書紀』の「迷」は、「め me(乙)」の欄に載せられると共に、「め me(甲)」の欄にも載せられている。この表によれば「迷」は「メ乙」「め甲」に両用されているから、“『日本書紀』では「め甲」「メ乙」は書き分けられていなかった”ということになる。
他の書物も同様である。大野晋は『上代仮名遣の研究』280頁で、「め(乙)」の項に「迷」を載せ、「め(甲)」の項にも「迷」を載せる。また、『時代別国語大辞典上代編』の「主要万葉仮名一覧表」においても、『日本書紀』の「迷」は「メ乙」ともされ、「め甲」ともされる。
【2】日本書紀には仮名としての「迷」は三例ある
『日本書紀』で「迷」が仮名として用いられる用例は三例ある。
親無しに 汝れ成りけ迷や〈奈理鶏迷夜〉[推古紀21年 紀歌104]
「け迷や」の「迷」は助動詞「む」の已然形であり、それは「メ乙」だから、この用例の「迷」は「メ乙」である。
神日本磐余彦尊(神武天皇)の言葉にある「迷」はどうか。
天皇、大きに喜ビて、(中略)諸ノ神を祭る。(中略)時に、道臣命に勅りたまひしく、「(中略)水ノ名を厳罔象女ト為。《罔象女、此を、みつはノ迷ト云ふ》。糧ノ名を厳稲魂女トす《稲魂女、此を、うかノ迷ト云ふ》。」[神武紀即位前戊午年。《 》内は割注]
この記事によれば、神武天皇は「罔象女」を「みつはノ迷」、「稲魂女」を「うかノ迷」と発音した。
そこで問題は、これらの「迷」の読みは「め甲」か「メ乙」かということである。
大野晋は『上代仮名遣の研究』222頁・322頁で、これら二例の「迷」を「め甲」だとする。その根拠は何か。大野は同書268頁の「め(甲)」の部の「謎(女)」の項で、「cf アマのサグメ、ウカのメ、シこメ、ナクメ、ヒナツメ、フナメ、ミツハのメ、ヤマシろメ、よろシメ」と記す。
その趣旨を私なりに説明すれば次のようである。
“「阿麻能左愚謎」[神代下紀第九段本文「天探女」注]・「志許売」[神代上紀第五段一書第七「醜女」注]・「儺倶謎」[仁賢紀6年「哭女」注]・「避奈菟謎」[神代下紀第九段一書第一 紀歌3]・「浮儺謎」[仁賢紀6年「?魚女」注]・「揶摩之呂謎」「夜莽之呂謎」[仁徳紀30年 紀歌57・58]・「与慮志謎」[継体紀7年 紀歌96]によれば、“女”の意味の「め」は、「謎」すなわち「め甲」である。よって、「罔象女=みつはノ迷」および「稲魂女=うかノ迷」の「迷」は「め甲」だとすべきである。”
大野のこの論証には不備がある。「女」が「め甲」と読まれる用例だけを掲げ、他の用例を掲げないことである。
【3】「女」は「み甲」「メ乙」とも読まれる
東方語では「女」は「み甲」と読まれることがある。
[東方] 子持ち痩すらむ 吾が女〈美〉愛しモ[万20 ―4343防人歌]
また、推古時代の近畿語でも「女」は「み甲」と読まれる。
推古天皇の名は『古事記』では「豊御食炊屋比売命」と記され、『日本書紀』では「豊御食炊屋姫尊」と記される。これによれば「姫」の読みは「ひめ甲〈比売〉」である。一方、七世紀前半に成立した「天寿国繍帳銘」では「姫」第二音素節は「み甲〈弥〉」と記される。
等已弥居加斯支移比弥乃弥己等[天寿国繍帳銘]
神功皇后は『日本書紀』では「気長足姫尊」と表記されるが、『万葉集』では「息長足日女命」[万5 ―813]と表記される。これにより、「姫」の原義は「日女」だと考える。
その「姫=日女」は「比弥=ひみ甲」とも記されるから、「女」は「み甲」とも読まれたと解る。
上代の九州で詠まれた歌の中では、「姫」を「ひメ乙」と記した用例がある。肥前国松浦郡の伝承を踏まえて詠んだ歌の中である。
松浦さよひメ乙〈佐用比米〉[万5 ―871]
「姫=日女」の読みが「ひメ乙」だとされているから、九州語では“女”は「メ乙」と発音されたことが解る。
【4】神武天皇の言葉には九州語が含まれて当然
『古事記』『日本書紀』双方に明記されているように、神武天皇は元来九州の人であり、九州を出発して、大和に向かった。そして『日本書紀』によれば、神武天皇が「罔象女」「稲魂女」という語を発音した時はまだ大和を平定していなかった。したがって、この時点での神武天皇の言語は九州語である。よって、神武天皇の言葉にある「女」の読みは、九州語での発音「メ乙」であって当然である。
神武天皇の言葉にある「罔象女=みつはノ迷」の「迷」および「稲魂女=うかノ迷」の「迷」は“女”の意味であり、九州育ちの神武天皇はこれらの“女”を九州語によって「メ乙」と発音したと考えられる。神武天皇の言葉にある「迷」は「メ乙」である。
神武天皇の言葉にある「迷」を「メ乙」だとするなら、『日本書紀』の上代特殊仮名「迷」はすべて「メ乙」になる。上代語では「迷」が「め甲」「メ乙」に両用されることはなかったといえる。
§2 上代九州語「いさちる」
【1】伊邪那伎命の言葉にある連体形「いさちる」は平安語では「いさつる」になる
(1)上代語の動詞「いさつ」の用例。
上代語には、連用形「いさち」、連体形「いさちる」になる動詞がある。
《連用》 啼きいさちき〈伊佐知伎〉。[古事記上巻]
《連体》 伊邪那伎命の言葉と、その言葉を引用した須佐之男命の言葉に「いさちる」とある。
伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまひしく、「何ノ由にか、汝は事依さしし国を治メずて、哭きいさちる〈伊佐知流〉。」(中略)速須佐之男命答∧て白ししく、「(中略)大御神ノ命モちて、僕ノ哭きいさちる〈伊佐知流〉事を問ひ賜ひし故に(下略)。」
「いさちる」は補助動詞で、直前の動詞を受けて、“人目かまわずに……する”の意を添える。国を治める者は人に涙を見せるものではないのに須佐之男命は人目かまわずに泣くので詰問されたのである。
(2)平安語の連体形「いさつる」。
上代語連体形「いさちる」は平安語では「いさつる」になる。
哭泣 なきいさつる〈奈岐以左津留〉
[日本書紀私記乙本神代上『新訂増補国史大系8』58頁]
哭 ナキイサツル 古語。[図書寮本類聚名義抄37頁]
上代語「いさちる」と平安語「いさつる」とでは、第三音素節に相違がある。この相違はどう考えればよいか。
【2】「いさちる」「いさつる」についての従来説
山口佳紀は『古代日本語史論究』319頁で平安語の連体形「いさつる」の用例として、「憂泣 イサツルコト」[前田本日本書紀雄略天皇章院政期点]などを挙げた後、320頁で次のとおりいう。「上一段とされているイサチルの場合、上一段動詞は一音節であるという原則に合致しないから、問題は依然として残る。この難関をどう打開するかだが、イサツは一貫して上二段であったと考えてみる。(中略)「哭伊佐知流」の二例は、「イサチ+イル(入)」の約と考えてはどうか。村山七郎「原始日本語の数詞イタ『1』について」(国語学八六集、一九七一・九)は、「イサチ+ヰル(居)」の転と考えたが、ワ行のヰ[wi]では、脱落の可能性がまずない。一方、ア行のイ[i]であれば、「チ」の母音と重なって一つになることが、十分考えられる。」
「いさちる」を「イサチ+イル(入)」だとする山口説には従えない。山口は「その場合のイル(入)の意味を「ある状態にひたり切る」という補助動詞的な使い方である」と説明する。仮にそうだとすれば、「上二段連用形いさち+いる→いさちる」と同様の用例が、他の上二段動詞にもあって当然である。「いる」が「ある状態にひたり切る」という意味なら、「恋ヒ+いる→恋ヒる」という用例が頻出しそうなものである。だが、実際には「恋ヒる」という用例はない。
【3】伊邪那伎の話す言葉にある「いさちる」は九州語
連体形「いさちる」は『古事記』上巻に二度現れるが、それは伊邪那伎命が須佐之男命にいった言葉の中と、須佐之男命が伊邪那伎命の言葉を引用した言葉の中である。
上代語には、近畿語・東方語・九州語がある。「いさちる・いさつる」問題を考えるには、まず、伊邪那伎命の話す言葉が近畿語なのか九州語なのか東方語なのかを検討する必要がある。
『古事記』上巻によれば、伊邪那伎命は、黄泉つ国から脱出した後、「竺紫ノ日向ノ橘ノ小門ノ阿波岐原」で禊祓をした時に、天照大御神や須佐之男命を生んだ。そして竺紫から移転することなく、天照大御神や須佐之男(命に国を治めるよう命じた。天照大御神らが誕生してから国を治めるほどの年齢に達するまで、二十年程度の年数を要したことであろう。その後、伊邪那伎命は「いさちる」という言葉を話した。伊邪那伎命の言葉にある「いさちる」は、当然、九州語である。また、須佐之男命は伊邪那伎命の言葉を引用して「いさちる」といったのだから、この「いさちる」も九州語である。
【4】伊邪那伎命の九州語では「いさちる」になり、平安語では「いさつる」になる理由
伊邪那伎命の言葉にある上代九州語の連体形「いさちる」の本質音と平安語の上二段連体形「いさつる」の本質音は同一で、「いさTW+YRY+AU」だと考える。遷移の仕方が異なるので、現象音は異なるものになる。
[上代九州語] いさちる=いさTW+YRY+AU→いさTWYRYAU
上代九州語では、母音部WYで、Wは潜化し、Yは顕存する。YAUでは、YAは潜化し、Uは顕存する。
→いさTwY ―RyaU=いさTY ―RU=いさちる
[平安] いさつる=いさTW+YRY+AU→いさTWYRYAU
平安語「いさつる」では上代近畿語の上二段と同様の遷移が起きる。
→いさTWy ―RyaU=いさTW ―RU=いさつる
§3 ク活用形容詞「醜女き」は九州語で「しコメ乙き」
【1】「醜女」と「しコメき」
『古事記』『日本書紀』にク活用形容詞「しコメき」がある。『古事記』には概略次のようにある。
伊邪那岐命は伊邪那美命に会うために黄泉つ国(死者の国)へ行った。黄泉つ国から脱出する際、伊邪那伎命は予母都志許売に追いかけられた。黄泉つ国から脱出した伊邪那伎命はいった。
「吾は、いなしコメしコメき〈志許米岐〉穢き国に到りてありけり」
[古事記上巻]
この記事には「志許売」と「志許米岐」が現れるが、「売」は「め甲」であり、「米」は「メ乙」である。
『日本書紀』には次のようにある。
伊弉冊尊、恨みて曰はく、「何ゾ要りし言を用ゐずして、吾に恥辱みせつ」といひて、すなはち泉津醜女八人を遣はして(中略)追ひて留む。(中略)伊弉諾尊既に還りて すなはち追ひて悔いて曰はく、「吾れ前に不須也凶目き汚穢き処に到る。」[神代上紀第五段一書第六]
不須也凶目汚穢、此を、いなしコメききたなき〈伊儺之居梅枳枳多儺枳〉ト云ふ。醜女、此を、しコめ〈志許売〉ト云ふ。
[神代上紀第五段一書第七]
この記事には「醜女〈志許売〉」と「凶目き〈之居梅枳〉」があるが、「売」は「め甲」であり、「目」「梅」は「メ乙」である。
【2】従来説では「しコメき」の「しコメ」は「醜女」ではないとされる
「しコメき」の「しコメ」は、「醜女」と同一語でその音韻転化したものか、それとも別の語か。
本居宣長は『古事記伝』六之巻でいう。“「志許米」は「志許売」とは別の語である。古事記では「女」を表す仮名には「売」と書き、「米」とは書かない。”
倉野憲司は『古事記全註釈』第二巻83~284頁で、「志許売」を「醜女」とし、「志許米岐」を形容詞「醜目し」の連体形だとする。
山口佳紀は『古代日本語文法の成立の研究』255頁で、ク活用形容詞「しコメき」の語幹を「シコ(醜)+マ+i」だとする。
このように、従来は“「しコメき」の「しコメ」は「醜女」とは別の語だ”とされている。
【3】「しコメ乙き」の「メ乙」は九州語の“女”
「しコメき」の「しコメ」と「醜女」について考えるにあたって私は三つのことに留意したい。
第一。九州語には“女”を表す語は「メ乙」と読まれる(「佐用比米(ルメ)」)。
第二。九州育ちの神武天皇は“女”を表すのに九州語「メ乙〈迷〉」を用いる(「稲魂女」など)。
第三。伊邪那伎命は九州で天照大御神らを生んで国を治めさせた。
九州で天照大御神らを生んで国を治めさせた伊邪那伎命なら、九州育ちの神武天皇と同じく、“女”の読みとして九州語「メ乙」を用いる可能性は十分ある。
伊邪那伎命は黄泉つ国で八人の醜女たちに追いかけられた。伊邪那伎命の心は醜女に対する嫌悪感で満ちていたことであろう。その伊邪那伎命なら、黄泉の国を「醜女き」所と表現するのは当然である。
上記のことから、伊邪那伎命の言葉にある「しコメ乙き」は「醜女き」の意だと考える。近畿語では「醜女」の「女」は「め甲」と読まれるが、伊邪那伎命は九州語を話すので、「醜女」の「女」を「メ乙」と発音したのである。
ク活用形容詞「しコメき」は「醜女+き」であり、“醜い女で満ちている”の意である。