§1 広瀬本万葉集東歌で“心”が「吉々里」と読まれる理由
【1】「心」が上代近畿語で「ココロ」「キり」「ききり」と読まれる用例
(1)「コ乙コ乙ロ乙」。
女にしあれば 吾がコ乙コ乙ロ乙〈許許呂〉 浦洲ノ鳥ゾ
[記上巻歌3a]
(2)キり。天照大神が素戔嗚尊の剣を噛んで産んだ三女神の中の一人の名は、神代上紀第六段本文・一書第一・一書第二によれば、「田心姫」である。一方、一書第三によればこの女神の名は「田霧姫」と表記され、『古事記』上巻では「多紀理毘売」と表記される。
これらを比較すれば、「田心」は「多紀理」「田霧」に相当することが解る。
「多紀理」は「たキ乙り」である。
「霧」は「紀利」[万5 ―799]だから、「田霧」は「たキ乙り」と読める。田心姫が霧に関係深いことは、神代上紀第六段本文に「吹き棄つる気噴きノ狭霧に生まるる神を号ケて田心姫トいふ」とあり、『古事記』上巻に「気吹きノ狭霧に成る神ノ御名は多紀理毘売命」とあることからも推察できる。
そこで「田心」の読みは、「多紀理」「田霧」、すなわち「たキ乙り」だと解る。「田心」の「心」の読みは「紀理」「霧」と同じで、「キ乙り」だと解る。
【2】広瀬本万葉集では東方語での「心」の読みは「吉々里」と表記される
固メトし 妹が心〈吉々里〉は
[万20 ―4390防人歌、下総。『校本万葉集別冊三』699頁]
広瀬本以外の諸本には「去々里」とあり、「ココり」あるいは「ココロ」と読まれていた。だが広瀬本に「吉々里」とある。広瀬本の文献的価値の高さはよく知られている。万4390の原形は「吉々里」だったとするのが順当である。
【3】広瀬本の下総防人歌「吉々里」の読みは「き甲き甲り」
広瀬本「吉々里」の「吉」は推古朝遺文・『記』・『紀』・『万葉集』を通じて「き甲」である。よって、「吉々里」の「吉」は「き甲」と読まねばならない。「吉々」すなわち「吉吉」は「き甲き甲」である。
「里」の読みについて。『万葉集』ではほとんどの「里」は、問題なく「り」と読める。よって、「吉々里」の「里」も「り」と読むのが順当である。東方語では「心」は「ききり」と読まれたのである。
【4】東方語「夜之里」の読み
(1)東方語「夜之里」の読みは「やしり」。
「吉々里」の読みに関連して検討したいのは下総防人歌の「夜之里」の読みである。
国々ノ 夜之里ノ神に 幣帛奉り
[万20 ―4391防人歌、下総。*里は広瀬本・元暦校本による。西本願寺本では呂]
歌意からすると「夜之里」の意味は“社”である。では、その読みは何か。
大野晋は『仮名遣と上代語』226頁で、「夜之里」について二つの見解を提起する。
一つは、西本願寺本の表記「夜之呂」を排し、元暦校本の「夜之里」を原形だとすることである。私はこの点については大野説に賛同する。広瀬本の表記も「夜之里」だからである。
大野のもう一つの見解は「夜之里」を「やしロ」と読むことである。
大野は同書225頁で下総防人歌での用字法には、「アには「阿」のみ、イには「以」のみ、レには「例」のみ、モには「母」のみを用い、「枳」を頻用するなど」の特徴があると指摘する。
そして同書226頁で、下総防人歌での仮名「理」「里」について、「リの仮名四例にはすべて「理」を用いて「里」を用いない。「里」はここに問題にしている、社と心とに用いられているのみである。(中略)以上のことを考えるとき「里」はリならぬロを表現したのではないか。」という。
大野のこの論法は、論理学の面に不備がある。私たちは〔「吉々里」「夜之里」の「里」の読みが「り」なのか、「ロ」なのか〕を問題にしている。にもかかわらず、大野は初めから“下総防人歌の用字法では、「り」の仮名には「「里」を用いない」”と宣言し、この宣言を論拠にして、“「吉々里」「夜之里」の「里」は「ロ」を表現した”と結論する。この論法は循環論法であり、是認できない。
あらためて私見を述べる。『万葉集』では、仮名「里」は、「吉々里」「夜之里」を別にすれば、問題なく「り」と読める。よって、「吉々里」「夜之里」の「里」も「り」と読むのが順当である。
この私見による場合、『万葉集』の仮名「里」はすべて「り」を表す。この状況は表音文字たる仮名として理想的なものである。
(2)下総防人歌で仮名「里」が「吉々里」「夜之里」のみに用いられ、「吉」が「吉々里」のみに用いられる理由。
大野が指摘したように、下総防人歌では、「り」を表す仮名としては「理」が4度用いられるが、「吉々里」「夜之里」だけは「里」が用いられる。
また、大野が指摘したように、下総防人歌では、「き」を表す仮名としては「枳」が頻用されるのに、「吉々里」だけは「吉」が用いられる。
筆録者がこのように書き分けた理由を説明しよう。
下総防人歌で仮名「理」が用いられるのは、“普通の「り」”を表す場合である。他方、「吉々里」「夜之里」で「里」が用いられるのは、“これは普通の「り」ではない。東方語では「り」だが、近畿語では他の音節(ロ乙)になる「り」である”と注意するためである。
下総防人歌で仮名「枳」「吉」の書き分けも同様である。「枳」は“普通の「き」”を表す。他方、「吉々里」で「吉」が用いられるのは、“これは普通の「き」ではない。東方語では「き」だが、近畿語では他の音節(コ乙)になる「き」である”と注意するためである。
【5】「心」が古今集の甲斐歌で「けけれ」になる遷移過程
かひがねを さやにも見しか けゝれなく よこほりふせる さやのなか山[古今和歌集20 ―1097]
「けゝれなく」は『万葉集』の「心なく」[万14 ―3463]に相当する語句である。
「心=コ乙コ乙ロ乙」が甲斐国の言語で「けけれ」になる理由を述べよう。
甲斐歌の「けけれ」の「け」は「ケ乙」相当の音素節だと考える。近畿語の「コ乙コ乙ロ乙」が甲斐の言語では「ケ乙ケ乙れ」になるのである。
甲斐は駿河に隣接するから、甲斐語は駿河語に似ると推察できる。駿河語では、近畿語の「オ乙」が「エ乙」になることがよくある。これは、母音部が¥O¥であって、近畿語では¥が潜化するが、駿河語では¥O¥が融合するからである。
「心」の本質音はK¥O¥K¥O¥R¥O¥だと推定する。
K¥O¥K¥O¥R¥O¥は近畿語・甲斐語では次のように遷移する。
[近畿] 心=K¥O¥K¥O¥R¥O¥→KjOjKjOjRjOj
=KOKORO=コ乙コ乙ロ乙
[甲斐] 心→K{¥O¥}K{¥O¥}R{¥O¥}
→K{¥Oj}K{¥Oj}R{¥Oj}=ケケれ
【6】「心」が下総防人歌で「き甲き甲り」になる遷移過程
万4390下総防人歌で「心」が「き甲き甲り」になるのは、母音部¥O¥で、¥がOを双挟潜化するからである。
[下総] 心=K¥O¥K¥O¥R¥O¥→K¥o¥K¥o¥R¥o¥
=K¥¥K¥¥R¥¥→Kj¥Kj¥Rj¥=K¥K¥R¥=き甲き甲り
「社」が「やしり」になるのも同様である。「やしR¥O¥」で、¥がOを双挟潜化する。
[下総] 社=やしR¥O¥→やしR¥o¥→やしRj¥=やしり
【7】「心」が古事記上巻・神代上紀で「キ乙リ」になる遷移過程
¥O¥で、¥がOを双挟潜化する。
心→K¥o¥K¥o¥R¥o¥=K¥¥K¥¥R¥¥
¥K¥では、その前後の¥が双挟潜化を促すので¥はKを双挟潜化する。
→K¥¥k¥¥R¥¥=K¥¥¥¥R¥¥
四連続する¥は融合する。¥¥も融合する。
{¥¥¥¥}・{¥¥}は共に「イ乙・い丙」を形成する。
→K{¥¥¥¥}R{¥¥}→き乙り
§2 「寝床」の「床」が「ド乙コ乙」とも「ど甲」とも読まれる理由
「寝床」などの「床」は「ト乙コ乙」「ド乙コ乙」と読まれることもあり、「ど甲」と読まれることもある。
[上代1] 「トコ」「ドコ」になる。
媛女ノ 床〈登許〉ノ辺に 吾が置きし 剣ノ大刀[景行記歌33]
いざ為小床〈乎騰許〉に[万14 ―3484東歌]
さ寝床〈佐祢耐拠〉モ 与はぬかモヨ
[神代下紀九段一書第六書紀歌4]
[上代2] 「ど甲」になる。
妹ロを立てて さ寝床〈左祢度〉払ふモ[万14 ―3489東歌]
組み床〈久美度〉に興して生む子
[古事記上巻。「組み床」は“(男女が手を)組みあう床”の意で、「さ寝床」とほぼ同義]
「床」の本質音はTDΩKΩだと推定する。
[上代1] さ寝床=小+寝+TDΩKΩ→さねTDΩKΩ→さねT ―DΩKΩ
→さねt ―DΩ ―KΩ=さねド乙コ乙
[上代2] ΩKΩで、ΩはKを双挟潜化する。
さ寝床→さねTDΩKΩ→さねT ―DΩkΩ→さねt ―DΩΩ
ΩΩは融合する。{ΩΩ}は「お甲」を形成する。
→さね ―D{ΩΩ}=さねど甲