第48章 「蹴ゑ」の活用が下二段から下一段・五段へと変化する理由

§1 「蹴ゑ」は上代語ではワ行下二段活用し、平安語前期の辞書類では終止形が「くゑる」「くぇる」「くゆ」「く」になる

【1】上代語ワ行下二段連用形「蹴ゑ」

[上代] 『日本書紀』神代上紀第六段本文の「蹴散」の注に「くゑはららかす〈倶穢簸邏邏箇須〉」とある。連用形が「くゑ」だから、ワ行下二段活用である。

【2】平安語前期の辞書類に「くゑる」「くぇる」「くゆ」「く」の用例がある

濱田敦は「「蹴る」と「越ゆ」『日本語の史的研究』193頁で、平安語の辞書『類聚名義抄』『字鏡(岩崎本)』などに見える「蹴」およびその類義語を捜羅して掲げる。それらのうち、終止形「クヱル」「化ル(「化」は合拗音「くぇ」)」「クユ」「ク」は「蹴ゑ」と同一の語だとし、「コユ」「フム」「ツマヅク」などは別の語だとする。濱田のこの説に従って論を進める。

【3】「蹴ゑ」の動詞語素

「蹴ゑ」の動詞語素はKWWYだと推定する。
「蹴ゑ」の活用語胴は「KWWY+¥Ω¥+WRW」である。

【4】上代語連用形「蹴ゑ」の遷移過程

[上代] 「蹴ゑ」は動詞「はららかす」に上接するから連用形つてに用法であり、活用語足は¥¥である。
蹴ゑ散かす→KWWY+¥Ω¥+WRW+¥¥+PAららかす
→KWWY¥Ω¥WrW¥ ―¥PAららかす
K直後のWWのうち、前のWは母音素性を発揮して、音素節KWを形成する。後のWは父音素性を発揮してワ行を形成する。
→KW ―WY¥Ω¥WW¥ ―jPAららかす
→KW ―WY{¥Ω¥}WW¥ ―PAららかす
→KW ―Wy{¥Ωj}wwjはららかす=くW{¥Ωj}はららかす
=くゑはららかす
この遷移では、Kの直後で二連続するWは二つとも顕存している。

【5】平安語前期の辞書類に見える「くゑる」「くぇる」「くゆ」「く」の遷移過程

[平安1(前期)] 蹴ゑる=KWWY+¥Ω¥+WRW+W
→KWWY¥Ω¥WRWW→KW ―WY¥Ω¥W ―RWW
→く ―WY{¥Ω¥}W ―RwW→く ―Wy{¥Ωj}w ―RW
=く ―W{¥Ωj}る=くゑる
この遷移では、K直後のWWは二つとも顕存している。
[平安2(前期)] 蹴る→KWWY¥Ω¥W ―RWW
→KWWY{¥Ω¥}W ―RwW→KWWY{¥Ωj}W ―る
KWWY{¥Ωj}Wでは、KWが父音部になり、WY{¥Ωj}Wが母音部になる。KWは合拗音「くぇ」の父音部になる。
母音部WY{¥Ωj}Wでは、融合音{¥Ωj}は顕存し、他は潜化する。
→KWwy{¥Ωj}wる=KW{¥Ωj}る=くぇる
この遷移では、K直後のWWのうち、前のWのみが顕存する。
[平安3(前期)] 蹴ゆ→KWWY¥Ω¥WRWW
WRWでは、直後のWが双挟潜化を促すのでWはRを双挟潜化する。
→KWWY¥Ω¥WrWW=KWWY¥Ω¥WWW
KWWの直後で音素節が分離する。Y¥Ω¥WWWではYが父音部になる。
→KWW ―Y¥Ω¥WWW→KwW ―YjωjWWW
→KW ―YWWW→くYwwW→くYW=くゆ
この遷移では、K直後のWWのうち、後にあるWのみが顕存する。
[平安4(前期)] 蹴→KWWY¥Ω¥WrWW
→KWWY¥Ω¥WWW
WY¥Ω¥Wでは、直前のWと直後のWWが双挟潜化を促すのでWはY¥Ω¥を双挟潜化する。
→KWWyjωjWWW=KWWWWW→KwwwwW=KW=く
この遷移では、K直後のWWは二つとも潜化する。


§2 平安語の物語で下一段活用する「蹴る」の遷移過程

【1】平安語の物語に現れる下一段「蹴る」の用例

[平安5] 物語に見える平安語では、「蹴」は語幹が「ケ」の下一段活用になる。
《終止》 太政大臣のしりはけるとも[落窪物語2]
《未然》 尻けんとする相撲[宇治拾遺物語31。「けん」は「蹴む」の音便]
《連用》 つてに用法。 尻をふたとけたりければ[宇治拾遺物語176]
《命令》 尻けよといはるる相撲は[宇治拾遺物語31]

【2】「蹴」が平安語でカ行下一段活用する理由

平安語下一段「蹴る」の活用語胴の語素構成は、上代語下二段連用形「くゑ」の活用語胴や平安語前期の終止形「くゑる」「くゆ」「く」などの活用語胴と同一である。
《終止》 蹴る→KWWY¥Ω¥WRWW
母音部WWY¥Ω¥Wでは¥Ω¥が融合する。
→KWWY{¥Ω¥}WRWW→Kwwy{¥Ωj}w ―RWW
=K{¥Ωj} ―RwW=ケる
《未然》 蹴ん→KWWY+¥Ω¥+WRW+∀+MΩ+W
→KWWY¥Ω¥WrW∀ ―Mωw→KWWY{¥Ω¥}WW∀ ―M
→Kwwy{¥Ωj}wwαん=K{¥Ωj}ん=ケん
《連用》 つてに用法。 蹴たり=KWWY+¥Ω¥+WRW+¥¥+たり
→KWWY¥Ω¥WrW¥ ―¥たり→KWWY{¥Ω¥}WW¥ ―jたり
→Kwwy{¥Ωj}wwj ―たり=K{¥Ωj}w ―たり=ケたり
《命令》 蹴よ=KWWY+¥Ω¥+WRW+YOY
→KWWY¥Ω¥WrW ―YOY→Kwwy{¥Ωj}ww ―YOy
=K{¥Ωj} ―YO=ケヨ
平安語で下一段活用する場合にはK直後のWWは二つとも潜化する。


§3 現代語五段活用「蹴る」の遷移過程

[現代] 現代語では、「蹴る」の活用語胴「KWWY+¥Ω¥+WRW」で次の遷移が起きる。
「蹴る」の活用語胴=KWWY+¥Ω¥+WRW→KWWY¥Ω¥WRW
→KWWY{¥Ω¥}WRW→KWWY{¥Ωj}WRW
K直後のWWY{¥Ωj}WとR直後のWは呼応潜顕する。前者では、{¥Ωj}は顕存し、W・Yは潜化する。これに呼応して、後者Wは潜化する。
→Kwwy{¥Ωj}w ―Rw=K{¥Ωj} ―R=ケR
この「ケR」に活用語足∀・Y・W・AUなどが続くから五段活用になる。
未然形と命令形の遷移過程を述べる。
《未然》 動詞が「ない」に続く場合の活用語足は∀である。
蹴らない→KWWY¥Ω¥WRW+∀+ない→ケR∀ない=ケらない
《命令》 蹴れ=KWWY¥Ω¥WRW+YOY→ケR{YOy}=ケれ


§4 平安語W潜化遷移・現代語W潜化遷移

動詞連用形「蹴ゑ」の動詞語素KWWYにある二つのWは、上代語では共に顕存するが、平安語(初期の辞書類を除く)では共に潜化する。このことを一般化して次のとおり考える。
平安語以後では、父音素にWが続き、その直後に兼音素が続く場合、父音素直後のWは潜化することがある。
「父音素+W+兼音素」でのWの潜化については次の規則性があると考える。

(1)平安語W潜化遷移。

平安語では、父音素にWが続き、その直後に兼音素が続く場合、Wは潜化する。但し、次の二つの場合を除く。
そのWの直後にYRYWが続く場合。
そのWを含む母類音素群が近隣の母類音素群と呼応潜顕する場合。
この遷移を平安語W潜化遷移と呼ぶ。

(2)現代語W潜化遷移。

現代語では、父音素にWが続き、その直後に兼音素が続く場合、Wは潜化する
この遷移を現代語W潜化遷移と呼ぶ。


§5 上二段動詞「ヨロコぶ」が再動詞化して四段動詞「ヨロコぶ」になる経緯

第46章で述べたように、上二段動詞「ヨロコぶ」は再動詞化して四段動詞「ヨロコぶ」になる。

(1)上二段動詞「ヨロコぶ」の遷移過程。

上二段「ヨロコぶ」は、動詞語素「ヨロコBW」に、活用形式付加語素YRYと、活用語足が続いたものである。
《未然》 喜ビざる=ヨロコBW+YRY+∀+ざる→喜BWYrY∀ざる
→喜B{WY}Y∀ざる→ヨロコB{WY}yαざる=ヨロコビざる
《連用》 つてに用法。 喜ビ=喜BW+YRY+¥¥→喜BWYrY¥¥
→喜B{WY}Y¥¥→喜B{WY}yjj=喜B{WY}=ヨロコビ

(2)四段動詞「ヨロコぶ」の遷移過程。

平安語前期に、上二段「ヨロコぶ」の動詞語素「ヨロコBW」では、四つの母音部が呼応潜顕する。
「喜ぶ」の上二段活用動詞語素=ヨロコBW
「オ乙」段相当の音素節「ヨ」「ロ」「コ」の母音部は顕存する。これに呼応して、Wは潜化する。
→ヨロコBw=ヨロコB
動詞語素末尾が父音素になったので、上二段の活用形式付加語素YRYを用いることができなくなる。それで、六活用形では「ヨロコB」の直後に活用語足が続く。
《連体》 良ロコぶ心→ヨロコBw+AU+心→ヨロコBAU心
→ヨロコBaU心=ヨロコBU心=ヨロコぶ心