第50章 「い甲」「イ乙」の識別が平安語で消滅する理由

§1 平安語上二段活用の遷移過程

【1】平安語上二段動詞の終止形・連体形・已然形の遷移過程

《終止》 おもふとも こふともあはん 物なれや[古今和歌集11 ―507]
恋ふ=恋PW+YRY+W→こPWYRYW→こPWYrYW
→こPWyyW→こPwW=こPW=こふ
《連体》 つまこふる しかぞなくなる 女郎花[古今和歌集4 ―233]
恋ふる=恋PW+YRY+AU→こPWYRYAU
Wは顕存し、WYとYAUは呼応潜顕する(平安語W潜化遷移)。後者ではYAが潜化する。これに呼応して、前者ではYは潜化する。
→こPWy ―RyaU=こPW ―RU=こふる
《已然》 接続用法。 よそにして こふればくるし[古今和歌集11 ―541]
恋ふれば=恋PW+YRY+YO¥M+P∀→こPWYRY{YOj}ば
Wは顕存し、WYとY{YOj}は呼応潜顕する(平安語W潜化遷移)。
Y{YOj}では、{YOj}は顕存し、その直前のYは潜化する。これに呼応して、WYでは、Yは潜化する。
→こPWy ―Ry{YOj}ば→こPW ―R{YOj}ば=こふれば

【2】平安語上二段動詞の未然形・連用形・命令形の遷移過程

《未然》 かけてのみやは こひんと思ひし[古今和歌集15 ―786]
恋ひん=恋PW+YRY+∀+MΩ+W→こPWYRY∀ ―MΩW
PWYではWは潜化する(平安語W潜化遷移)。
→こPwYRY∀ ―Mωw→こPYrY∀ ―M→こPYYαん
→こPyYん=こPYん=こひん
《連用》 つてに用法。 こひこひて あふよはこよひ
[古今和歌集4 ―176]
恋ひて=恋PW+YRY+¥¥+T¥∀¥→こPWYRY¥ ―jて
→こPwYRY¥ ―て→こPYrY¥ ―て=こPYY¥ ―て
母音部YY¥では、YYはひとまず顕存し、¥は潜化する。
→こPYYj ―て→こPyY ―て=→こPY ―て=こひて
《命令》 たへがたからんおりは、うりてすぎよ[宇治拾遺物語8]
過ぎよ=過GW+YRY+YOY→すGWYRY ―YOY
GWYではWは潜化する(平安語W潜化遷移)。
→すGwYRY ―YOy→すGYrY ―YO→すGyYヨ=すぎヨ


§2 平安語上一段活用「嚔る」の終止形・連体形の遷移過程

平安語の終止形「嚔る」(「ひるとぞ」)と連体形「嚔る」(「ひる事」)の用例を挙げる。
鼻ひる事は、人に、うへいはるる時、ひるとぞいへる
[俊頼随脳『日本古典文学全集歌論集』147頁]
《終止》 終止形「嚔る」の語素構成は動詞語素PWYに、YRYとWが続いたもの。
嚔る=PWY+YRY+W→PWYYRYW
PWYYではWが潜化する(平安語W潜化遷移)。
→PwYYRYW→PyY ―RyW=PY ―RW=ひる
《連体》 嚔る=PWY+YRY+AU→PWYYRYAU
→PwYYRYAU=PYYRYAU→PyY ―RyaU=PY ―RU=ひる


§3 「い甲」「イ乙」の識別が平安語で消滅する理由

「イ乙」を形成する本質音のうち、主たるものはWYである。上代語では、母音部WYは、「{WY}=イ乙」を形成することはあっても「wY=い甲」を形成することはない。だが、平安語になると、母音部WYは「wY=い甲」を形成することはあっても「{WY}=い乙」を形成することはない。上代語で「イ乙」段を形成した音素節のほぼすべては、平安語では「い甲」段相当の音素節に転じるのである。
一方、上代語で「い甲」を形成する母音部Yと母音部¥は平安語になっても「い甲」相当の母音部を形成する。
それで平安語のほぼすべての「い」段音素節は「い甲」段相当の音素節になる。
この経緯によって「い甲」「イ乙」の識別は消滅した。

「お甲」「オ乙」の識別が消滅した理由については『上代特殊仮名の本質音』第137章・第138章を参照されたい。