第52章 大野晋の動詞古形説と私の動詞本質音説の相違点・共通点

§1 上代特殊仮名の音素配列についての大野晋説と私見との相違点・共通点

私は日本語の単語を語素に分解し、語素の本質音を音素配列で表示し、それらの音素がどのように潜顕・融合して現象音になるかを論じる。この方法には先行説がある。大野晋が「日本語の動詞の活用形の起源について」『国語と国文学』30 ―6・「万葉時代の音韻」『万葉集大成第六巻』・『日本語の文法を考える』などで述べた説である。私見は大野説と共通する点もあるが、相違点も多い。


§1では、上代特殊仮名の本質音について、私見と大野説がどう異なるかを述べる。

【1】「え甲」の音素配列

《大野》 大野は『日本語の文法を考える』198頁で、「エ列甲類eは古形iaから転じた合成母音」だという。
《坂田》 私は、「え甲」は「母音」たるiやaだけからでは合成できないと考える。「え甲」を形成する現象音は{YAY}・{YOY}・{Y∀Y}・{OAY}・{YOAY}・{YO¥}など種々ある。これらには兼音素Yや¥が含まれる。「え甲」を形成する現象音は、三つ(稀に四つ)の母類音素が融合したもので、その末尾には顕存したYまたは¥がある。「え甲」を形成するにはヤ行を形成する兼音素Y・¥が必要である。
〔「え甲」は複数の音素が融合したもの〕という点については私は大野説に従う。

【2】「エ乙」の音素配列

《大野》 大野は同書198頁で「エ列乙類eは古形aiから転じた合成音」だという。
《坂田》 私は、「エ乙」は「母音」だけからでは合成できないと考える。「エ乙」を形成する現象音は、{YOj}・{¥∀j}・{¥Ωj}・{YAy}など種々ある。これらにはYまたは¥が含まれる。そしてj(潜化した¥)が含まれることも多い。
〔「エ乙」は複数の音素が融合したもの〕という点については私は大野説に従う。

【3】「イ乙」の音素配列

《大野》 大野は同書198頁で「イ列乙類iは古形oiまたはuiから転じた合成母音」だという。
《坂田》 私は、「イ乙」を形成する現象音は{WY}と{W¥}の二つだと考える。これらの現象音を形成するのは母音素ではなく、兼音素である。
〔「イ乙」は複数の音素が融合したもの〕という点については私は大野説に従う。

【4】「お甲」の音素配列

《大野》 大野は同書199頁で「オ列甲類oにはua→oという変化を経たもの」があるという。
《坂田》 私は、「お甲」を形成する現象音として、二つの完母音素が融合した{AU}もあり、兼音素を含む{OWO}もあり、他にも種々の融合音があると考える。
〔「お甲」には複数の母音素(大野説では「母音」)が融合したものがある〕という点については私は大野説に従う。

【5】「あ」「い甲」「う」「オ乙」の音素配列

《大野》 大野は同書199頁で「a・i・u・oの四つはもっとも古くからあった母音」だという。
《坂田》 私は次のとおり考える。「あ」を表す音素は完母音素Aと弱母音素∀の二つである。「い甲」を表す音素は兼音素Yと兼音素¥の二つである。「う」を表す音素は完母音素Uと兼音素Wの二つである。「オ乙」を表す音素は完母音素Oと兼音素Ωである。「い甲」「イ乙」「い丙」を形成する完母音素は存在しない。
〔A・U・Oは母音素である〕という私見は、大野説のうちの〔a・u・oは母音である〕という部分に近い。


§2 動詞語素についての大野説と私見との相違点

【1】四段動詞の語素

《大野》 大野は『日本語の文法を考える』200頁以下で、動詞の種類を四段・上一段・上二段・下二段・カ変・サ変・ナ変・ラ変、合わせて八種類の段活用に分ける。そして「ラ変・四段・サ変・カ変の語は子音終止であったと仮定する」といい、四段動詞「咲」の「語」をsakだとする。
《坂田》 私は、ほとんどの四段動詞の語素の末尾は父音素だが、「坐す」「欲る」の語素の末尾は兼音素¥だと考える。

【2】サ変動詞・カ変動詞の語素

《大野》 大野はサ変の語根をsだとし、カ変の語根をkだとする。しかし、s・kは単一の「子音」だから発音してもほとんど聞こえない。単一の「子音」を語素とするのは現実的でない。
《坂田》 私はサ変動詞の語素をSYOY、カ変動詞の語素をK¥O¥だと推定する。SYOYは「S{YOY}=せ」を形成でき、K¥O¥は、「KjOj=コ」を形成できる。

【3】ラ変動詞の語素

《大野》 大野はラ変「有り」の語根をarだとする。その末尾は「子音」である。
《坂田》 私はラ変「有り」の語素はAYR¥¥だと推定する。その末尾は兼音素¥である。

【4】上甲段動詞の語素

《大野》 大野は「着」の語根をkiだとする。
《坂田》 私は「着」の語素はKYだと推定する。Yはヤ行を形成する兼音素であり、「母音」たるiとは異なる。

【5】上乙段動詞

《坂田》 私は終止形「干」や連体形「廻る」などは上乙段動詞だと考え、「干」の動詞語素はPWY、「廻」の動詞語素はMWYだと推定する。
《大野》 大野は上乙段動詞の存在を認識していない。

【6】上二段動詞の語素

《大野》 大野は上二段動詞「起く」の語根をokoだとし、「尽く」の語根をtukuだとする。
《坂田》 私は「起く」の動詞語素は「おKW」、「尽く」の動詞語素は「つKW」だと推定する。これら上二段動詞語素の末尾は兼音素Wであって、「母音」たるo・uとは異なる。

【7】下二段動詞の語素・活用語胴

《大野》 大野は下二段「明く」の語根をakaだとする。その末尾は「母音」である。
《坂田》 私は「明く」の動詞語素を「あK」だと推定する。その末尾は父音素である。そして、「明く」など多くの下二段動詞では、動詞語素に、段付加語素¥Ω¥(東方語ではYAYも用いられる)と、活用形式付加語素WRWと、活用語足が続くと考える。
大野は下二段の段付加語素¥Ω¥・YAYと活用形式付加語素WRWを認識していない。


§3 連用形・終止形の活用語足についての大野説と私見との相違点

【1】動詞連用形末尾の母音部についての大野説と私見

《大野》 大野は「日本語の動詞の活用形の起源について」で、「連用形はすべて語幹にiが接続して成立した」という。
だが、大野説では、「吹き上ゲ」などの用例を説明できない。大野説によるなら「吹き上げ」は「吹k+i+aゲ→吹kiaゲ」になるが、大野説ではiaは「e=え甲」だから、「吹kiaゲ」は「吹keゲ=吹けゲ」になるはずである。しかし、実際には「吹きあゲ」であって、「吹けゲ」にはならない。
《坂田》 私は連用形つてに用法の活用語足は¥¥だと考えるから、「吹K+¥¥+Aゲ」は「吹K¥ ―jAゲ=ふきあゲ」になって、文献事実に合致する。

【2】動詞終止形の活用語足についての大野説と私見

《大野》 大野は同論文で、動詞終止形について、「ラ変がiで終るに対して他がすべてuで終る」という。そして“ラ変以外の終止形では、「居」の終止形たるuが「連用形の後に接続」した”とする。
この大野説によれば、上代語「見」終止形は「みる」になるという。しかし、文献事実によれば、上代語「見」終止形は「みる」ではなく「み」だから、大野説では文献事実に違背する。
《坂田》 私は動詞終止形の活用語足はWだと考える。上代語「見」終止形の場合には、動詞語素MYに、活用形式付加語素YRYと、終止形の活用語足Wが続く。これらが熟合すると、RやWは潜化し、最終的には「MY=み甲」になる。これは文献事実に合致する。