§1 複数を表す助詞「あ」
日本語には助詞「あ」がある。体言・動詞・助詞に付くが、熟合・縮約するので、音節「あ」として現れることはない。
【1】数詞に名詞が続く場合、名詞に助詞「あ」が付いて縮約する
① 「年」は通常は「トし〈登斯〉」[景行記歌28]だが、数字に続くと「五年〈等世〉」[万5 ―880]のように、「トせ」になる。「トせ」は「年」に助詞「あ」が続いたものと考える。
助詞「あ」の本質音はA¥だと推定する。
「年」の本質音は「トSY」だと推定する。
五年=五+年+助詞あ=いつ+トSY+A¥→いつトSYA¥
YA¥は融合する。{YA¥}の¥は潜化する。{YAj}は「エ乙・え丙」を形成する。
→いつトS{YA¥}→いつトS{YAj}=いつトせ
② 数詞に「かぢ(梶)・かい(櫂)」が続くと「か」になる。
船を漕ぐ「梶」「櫂」は上代語では「かぢ〈可治〉」[万15 ―3624]・「かい〈加伊〉」[万2 ―153]と記される。数字に「かぢ」「かい」が続く用例として「八十か〈夜蘇加〉」[万20 ―4408]がある。
「かぢ」「かい」の本質音は同一で、KAYDYだと推定する。KAYとDYの間で音素節が分離すれば「かぢ」になり、YがDを双挟潜化すれば「かい」になる。
[上代1] 梶=KAYDY→KAY ―DY→KAy ―DY=かぢ
[上代2] 櫂=KAYDY→KAYdY→KA ―YY=かい
「八十櫂」は、「八十」に、KAYDYと、助詞「あ=A¥」が下接・縮約したもの。
八十櫂=八十+KAYDY+A¥→やそKAYDYA¥
KAYDYA¥では、YがDを双挟し、そのYDYをAが双挟する。この場合、まず、YがDを双挟潜化する。
→やそKAYdYA¥=やそKAYYA¥
AYYAでは、AはYYを双挟潜化する。
→やそKAyyA¥→やそKAAj→やそKaA=やそKA=やそか
【2】助詞「ロ・ら」に助詞「あ」が下接・縮約して「ら」になって複数を表す用例
媛女ら〈良〉が 媛女さビすト[万葉5 ―804]
「ロ」が複数を表すことはない。そこで、複数を表す「ら」は、助詞「ロ・ら」ではなく、助詞「ロ・ら」に助詞「あ」が下接・縮約したものだと考える。
媛女ら=媛女+R∀Ω+A¥→をトめR∀ΩA¥
母音部∀ΩA¥では、完母音素Aは顕存し、他は潜化する。
→をトめRαωAj=をトめRA=をトめら
§2 動詞語素に助詞「あ」が付く用法
(1)動詞語素に続く助詞「あ」が後続語を連体修飾する用例。
① 垂ら乳根。
「垂乳根乃母」[万9 ―1774]の「垂乳根」は、「多良知祢能波波」[万15 ―3691]から解るように、「垂ら乳根」であり、“垂れた乳房”の意味である。
“垂れる”の意の「垂る」は下二段動詞だから、その六活用形には「垂ら」はない。「垂ら」は、下二段「垂る」の動詞語素「垂R」に助詞「あ=A¥」が下接・縮約したものと考える。この場合の「あ」は連体修飾を表す。
垂ら乳根=垂R+A¥+乳根=たRA¥ちね→たRAjちね=たらちね
② 向か股。
『古事記』上巻の「向股に踏みなづみ〈於向股踏那豆美〉」に相当する語は神代上紀第六段本文では「陥股」であり、「陥股」の読みについては『日本書紀私記(乙本)』神代紀上の注(『新訂増補国史大系第8巻』69頁)に「むかモモ〈牟加毛毛〉にふみぬき」とある。
左右の股(脚の上部の後背部)は、人が普通に直立した場合には左右に並ぶが、両膝を外向けにして曲げながら、両足を外股に大きく開くと、左右の股は向き合う。この姿勢が「向か股」であり、相手を威嚇する姿勢である。
「向か股」の語素構成は、四段「向く」の動詞語素「向K」に、助詞「あ」と「股」が続いたもの。
向か股=向K+A¥+股→むKA¥モモ→むKAjモモ=むかモモ
(2)動詞語素に続く助詞「あ」が“……する地域”を表す用例「日向」。
「日向〈辟武伽〉」[推古紀20年 紀歌103]は国名である。景行紀17年条によれば、「是ノ国は直く日ノ出づる方に向く」ということから「日向」と呼ばれるようになった。「日+向か」の「向か」は“向かう地域”の意味である。「向か」は動詞語素「向K」に助詞語素「あ」が続いたものだと考える。
日向=日+向K+A¥→ひむKA¥→ひむKAj=ひむKA=ひむか