第56章 「吾が大王」が「わゴおほきみ」になる理由

§1 「常」「苑」が訓仮名で「ト」「ソ」になる理由

【1】「常」が通例は「トコ」と読まれ、訓仮名では「ト」と読まれる理由

[上代1] 常を訓みてトコ〈登許〉ト云ふ。
[古事記上巻。「天之常立神」注]
[上代2] やまト〈山常〉には 群ら山あれド[万1 ―2]
みやこト〈常〉成しつ[万19 ―4261]
「トコ」の本質音はTΩKΩだと推定する。
[上代1] 通例は、TΩ・KΩがそれぞれ音素節を形成する。
常=TΩKΩ→TΩ ―KΩ=ト乙コ乙
[近畿2] ΩKΩで、兼音素ΩはKを双挟潜化する。
常=TΩKΩ→TΩkΩ=TΩΩ→TωΩ=TΩ=ト乙

【2】「苑」が通例は「ソノ」と読まれ、訓仮名では「ソ」と読まれる理由

[近畿1] 梅ノ花 咲きたる苑〈僧能〉ノ 青柳は[万5 ―817]
[上代2] 死なばコソ〈木苑〉 相ひ見ずあらメ[万16 ―3792]
「苑」の本質音はSΩNΩだと推定する。
[上代1] 通例は、SΩ・NΩがそれぞれ音素節を形成する。
苑=SΩNΩ→SΩ ―NΩ=ソ乙ノ乙
[上代2] ΩNΩで、兼音素ΩがNを双挟潜化する。
木苑=コSΩNΩ→コSΩnΩ=コSΩΩ→コSωΩ=コSΩ=コソ乙


§2 「吾君」「いざな君」の遷移過程

【1】「吾君」が「あぎ」になる遷移過程

「吾君」が「あぎ」と読まれることは既に述べたが、吟味すべきことが残っている。「君」の第二音素節「み」は通例は脱落しない。「吾君」の場合に限って「み」が脱落するのはどうしてか。
「吾君」では「吾」が「あ」になり、これに呼応して「君=KGYMY」のMが潜化するからである。
吾君=ΩA+KGYMY→ΩAK ―GYMY→ΩAk ―GYMY
ΩとMは呼応潜顕し、共に潜化する。ΩAでは父音部のΩは潜化する。これに呼応して、MはYに双挟潜化される。
→ωA ―GYmY→A ―GyY=A ―GY=あぎ甲

【2】「いざな君」が「いざなぎ」になる遷移過程

「いざなぎ〈伊邪那岐〉」[古事記上巻]の語素構成は「いざ+助詞ノ・な+君」だと考える。
な君=N∀Ω+KGYMY→N∀ΩKGYMY→N∀Ωk ―GYMY
ΩとMは呼応潜顕し、共に潜化する。
→N∀ω ―GYmY=N∀ ―GYY→N∀ ―GyY=なぎ甲


§3 「大」は「おほ」とも「お」とも読まれる

【1】「大」は「おほ」とも「お」とも読まれる

(1)「大碓」「小碓」兄弟と「おけ」「をけ」兄弟の名を対比する。

兄たる「大碓」[景行記・景行紀]と弟たる「小碓」[景行記・景行紀]の名に注目しよう。兄の名には「大」が冠され、弟の名には「小」が冠される。兄は“年齢の数が大きい”から「大」が冠され、弟は“年齢の数が小さい”から「小」が冠されるのである。
他方、兄たる「おけ」と弟たる「をけ」の名に注目しよう。仁賢天皇と顕宗天皇は兄弟である。兄仁賢天皇の名は「おけ〈意祁〉[清寧記]、〈億計〉[顕宗紀]」であり、弟顕宗天皇の名は「をけ」〈袁祁〉[清寧記]、〈弘計〉[顕宗紀]」である。兄の名には「お」が冠され、弟の名には「を」が冠される。
「大碓」「小碓」兄弟の名と「おけ」「をけ」兄弟の名を対比しよう。
「葦原ノ賎しき小屋〈袁夜〉に」[神武記歌19]・「相武ノ小野〈袁怒〉に燃ゆる火ノ」[景行記歌24]・「小さ小さ〈乎佐乎左〉モ寝なへ子ゆゑに」[万14 ―3529]などから解るように、「小」は「を」と読まれるから、弟の名に冠される「を」は「小」のことだと解る。よって、兄の名に冠される「お」は「大」のことだと解る。

(2)「おきな」「おみな」「をみな」を対比する。

“年齢の数が大きい男”を意味する「おきな〈於伎奈〉」[万18 ―4128]は、“年齢の数が大きい女”を意味する「おみな〈嫗〉」[万2 ―129]と対になる語である。
そして「おみな」の反対語で、“年齢の数が小さい女”“少女”を意味する語は「をみな」である。
弾く琴に 舞ひする少女〈袁美那〉[雄略記歌95]
「おきな」「おみな」「をみな」に共通する「な」は、助詞「ノ・な」であって、敬称“……さん”の意を添える。
「おみな」「をみな」に共通する「み」は、「吾が女〈美〉」[万4343]の「み」で、“女”の意である。
男性「おきな」の「き」は、「吾君」「いざな君」の「君」と同一語で、男性の尊称「君」が縮約したものだと考える。
以上をまとめて「をみな」と「おきな」「おみな」を対比しよう。
年齢数が小さい「をみな」の「を」は「小」である。そこで年齢数が大きい「おきな」「おみな」の「お」は「大」だと解る。「大」は「お」とも読まれるのである。

(3)「おぎロなし」は「大王ロなし」。

「大」が「お」、「君」が「ぎ」と読まれることが知られたので、形容詞「おぎロなし」の語素構成と意味を述べよう。
海人小船 はららに浮きて 大御食に 仕∧まつるト 遠方近方に 漁り釣りけり ソきだくモ おぎロなき〈於芸呂奈伎〉かモ コきばくモ豊ケきかモ 此処見れば う∧”し神代ゆ 始メけらしモ
[万20 ―4360]
「おぎロなきかモ」は「豊ケきかモ」と対句になって天皇の勢威の盛んな様子を讃える。「おぎロなし」は“天皇が偉大な王である”状況を形容する意味だといえる。そこで「おぎロなし」の構成は「大+王+助詞ロ+な+し」だと考える。原義は“偉大な王のような”である。
「おぎロなし」の「お」は「大」の縮約だと考える。「ぎ」は「吾君」「いざな君」の「ぎ」と同様で、「王」の縮約だと考える。「ロ」は助詞「ロ=R∀Ω」。「な」は「をぢなし」「つたなし」「たづかなし」の「な」と同一語で“……のような”の意である。

【2】「大」が「おほ」にも「お」にもなる理由

「おほ」にも「お」にもなる「大」の変化は、「トコ」にも「ト」にもなる「常」や、「ソノ」にも「ソ」にもなる「苑」の変化に似る。ただ、「大」の変化は「常」「苑」とは異なる点もある。「常」「苑」が一音節に縮約する用例がそれぞれ一例しかないのに対し、「大」は上代語で「おけ」「おきな」「おぎロなし」の三例で「お」になる。さらに、平安語においても、「おとゞのつくりざま」[源氏物語若紫]のように、「大殿」が「おとど」と表記され、「大」が「お」と読まれたことが解る。「大」は「常」「苑」よりも縮約しやすいといえる。
「大」が「常=TΩKΩ」や「苑=SΩNΩ」より縮約しやすいのは、「大」の本質音がΩΩPΩΩだからだと考える。Ωが二重にPを双挟するので、Pが双挟潜化されやすいのである。
[上代1] 「おほ」になる。ΩΩとPΩΩの間で音素節が分離する。
大=ΩΩPΩΩ→ΩΩ ―PΩΩ→ΩΩ ―PωΩ=ΩΩ ―PΩ
初頭のΩΩでは、父音部のΩは潜化するが、母母音部のΩは顕存するので、「お」になる。
→ωΩほ=おほ
[上代2] 「お」になる。ΩPΩでは、その直前・直後にあるΩが双挟潜化を促すのでΩはPを双挟潜化する。
大=ΩΩPΩΩ→ΩΩpΩΩ=ΩΩΩΩ
初頭のΩは父音部になり、後の三つのΩは母音部になる。母音部ΩΩΩでは、末尾のΩのみが顕存する。
→ΩωωΩ=ΩΩ→ωΩ=お


§4 「吾が大王」が「わゴおほきみ」になる理由

【1】「吾が大王」と「吾ゴ大王」

「吾が大王」は「わがおほきみ」と読まれることもあるが、「わゴ乙おほきみ」に転じる方が多い。「わがほきみ」「わゴほきみ」になる用例はない。
[上代1] やすみしし わがおほきみ〈和賀意富岐美〉[景行記歌28]
[上代2] わゴおほきみ〈和期於保伎美〉 吉野ノ宮を あり通ひめす
[万18 ―4099]

【2】「が大」「ゴ大」の遷移過程

助詞「が」はG∀であり、「大」はΩΩPΩΩである。G∀とΩΩPΩΩが熟合するとG∀ΩΩPΩΩになる。
G∀直後のΩが父音素性を発揮すれば「がおほ」になり、母音素性を発揮すれば「ゴおほ」になる。
[上代1] が大=G∀+ΩΩPΩΩ→G∀ΩΩPΩΩ
G∀ΩΩでは、G∀直後のΩは父音素性を発揮し、音素節ΩΩを形成する。
→G∀ ―ΩΩ ―PΩΩ→G∀ ―ΩΩ ―PωΩ→G∀ ―ωΩ ―PΩ=がおほ
[上代2] G∀直後のΩは母音素性を発揮して音素節G∀Ωを形成する。このような遷移をΩの前方編入と呼ぶ。
G∀Ωの直後のΩは単独で音素節「Ω=お」を形成する。
→G∀Ω ―Ω ―PΩΩ=G∀Ω ―お ―PΩΩ
G∀Ωの母音部∀Ωでは、後方にあるΩは顕存し、前方にある∀は潜化する。
→GαΩ ―お ―PωΩ=GΩ ―お ―PΩ=ゴ乙おほ


§5 「翁」「大王ロなし」の遷移過程

【1】「翁」が「おきな」になる遷移過程

「翁」の語素構成は「大+君+助詞な」だと考える。
翁=大+君+N∀Ω→ΩΩPΩΩ+KGYMY+N∀Ω
→ΩΩPΩΩKGYMYN∀Ω
ΩPΩでは、ΩはPを双挟潜化する。
→ΩΩpΩΩ ―KGYMY ―N∀Ω→ΩΩΩΩ ―KgYMY ―N∀Ω
ΩΩΩΩでは、初頭のΩが父音部になる。母音部ΩΩΩでは、末尾のΩのみが顕存する。
→ΩωωΩ ―KYMY ―N∀Ω=ΩΩ ―KYMY ―N∀Ω
ΩΩの父音部たる初頭のΩと、Mと、∀Ωは呼応潜顕する。父音部たるΩは潜化する。これに呼応して、MはYに双挟潜化され、∀ΩではΩが潜化する。
→ωΩ ―KYmY ―N∀ω→ωΩ ―KyY ―N∀=おKYな=おき甲な

【2】「大王ロなし」が「おぎロなし」になる遷移過程

大王ロなし=ΩΩPΩΩ+KGYMY+R∀Ω+な+し
→ΩΩPΩΩKGYMYR∀Ωなし
ΩKGでは、KはΩに付着し、ΩKとGの間で音素節が分離する。
→ΩΩpΩΩK ―GYMY ―R∀Ωなし→ΩΩΩΩk ―GYMY ―R∀Ωなし
→ΩωωΩ ―GYMY ―R∀Ωなし=ΩΩ ―GYMY ―R∀Ωなし
父音部たる初頭のΩと、Mは呼応潜顕する(∀Ωは、その父音部がRなので呼応潜顕に加わらない)。父音部たるΩは潜化する。これに呼応して、MはYに双挟潜化される。
∀Ωでは、後方にあるΩは顕存し、前方にある∀は潜化する。
ωΩ ―GYmY ―RαΩなし→ωΩ ―GyY ―RΩなし=おぎ甲ロ乙なし