本章以下では「形容詞」は“形容詞型の活用をする助動詞”を含むものとする。
§1 「荒し男」の「荒し」は形容源詞、「し」は形容源化語素S¥
【1】「荒し男」「堅し岩」では「荒し」「堅し」が終止形の形で後続語を修飾する
荒し男〈安良志乎〉すらに 嘆き伏せらむ[万17 ―3962]
ク活用形容詞「荒し」には連体形「荒き〈安良伎〉」[万15 ―3688]がある。にもかかわらず、万3962では終止形の形の「荒し」が後続語を修飾する。
堅し磐〈柯陀之波〉[雄略紀7年是歳条。「堅磐」注]
ク活用形容詞「堅し」に「磐」が続くのなら、「堅き磐」が縮約して「かたきは」になりそうなものだが、そうはならずに、「堅し」が用いられ、「堅し磐」が縮約して「かたしは」になる。どうして終止形の形の「堅し」が後続語を修飾するのか。
【2】「うつくし妹」では終止形の形の「うつくし」が後続語を修飾する
うつくし妹〈于都倶之伊母〉が また咲き出来ぬ
[孝徳大化5年 紀歌114]
シク活用形容詞「うつくし」には連体形「うつくしき〈于都倶之枳〉」[書紀歌121]がある。にもかかわらず、書紀歌114では終止形の形の「うつくし」が後続語を修飾する。これはどうしてか。
【3】形容源詞
「荒し男」「堅し磐」「うつくし妹」の「荒し」「堅し」「うつくし」は終止形の形だが、用途は連体修飾である。終止形が連体修飾するとは考えられない。これらの「荒し」「堅し」「うつくし」は形容詞ではないと判断する。
「荒し」「堅し」「うつくし」のように、形容詞終止形の形でありながら、形容詞終止形ならざる作用をする詞を形容源詞と呼ぶ。
【4】形容源詞の語幹
形容源詞から「し」を除去した部分を形容源詞の語幹と呼ぶ。
【5】形容源詞末尾の「し」は形容源化語素S¥
形容源詞の末尾にある「し」を形容源化語素と呼ぶ。
形容源化語素「し」の本質音はS¥だと推定する。
形容源化語素「し」は、サ変動詞連用形「し」とは別の語であり、代名詞「其」とも別の語である。
【6】形容源詞は活用語ではない
形容源詞は語幹に形容源化語素S¥が続いたものであって、活用語足を含まない。形容源詞は活用語足を含まないから活用語ではない。形容源詞には連体形や已然形などの活用形は存在しない。
§2 形容源詞の連体用法
【1】形容源詞の連体用法
形容源詞は、「荒し男」のように、「語幹+S¥」だけで後続の体言を修飾する用法がある。これを形容源詞の連体用法と呼ぶ。
【2】「かモ」に上接する「悔やし」「トモし」「う∧”し」は形容源詞の連体用法
「かモ」に上接する形容詞は連体形になる。ところが、連体形にならず、末尾が「し」のままで「かモ」に上接する語がある。
悔やしかモ〈久夜斯可母〉 かく知らませば[万5 ―797]
鳴く鹿ノ 言羨しかモ〈乏可母〉[万8 ―1611]
う∧”しかモ〈宇倍之訶茂〉 蘇我ノ子らを 大王ノ 使はすらしき
[推古紀20年 紀歌103]
これらは形容詞ではなく、形容源詞の連体用法である。
§3 形容源詞は後続語と縮約する場合としない場合がある
【1】形容源詞連体用法「堅し岩」「うつうし妹」の遷移過程
(1)形容源詞と後続語が熟合・縮約する場合の遷移。
「岩」の本質音は「YYは」だと推定する。
堅し岩=堅+S¥+YYは→堅S¥YYは→堅SjYYは
→かたSyYは=かたSYは=かたしは
(2)形容源詞と後続語が熟合・縮約しない場合の遷移過程。
うつくし妹=うつく+S¥+YYも→うつく+し+いも=うつくしいも
「うつくし妹」は熟合・縮約すれば、「堅し岩」と同様の遷移過程で「うつくしも」になるだろう。そうならないのは、形容源詞は後続語との熟合・縮約を避けることがあるからだと考える。
【2】「うつしおみ」「うつせみ」「うつソみ」の遷移過程。
[上代1] うつしおみ。形容源詞「うつ+し」が「おみ」を修飾する。縮約はしていない。
恐し、我が大神、うつしおみ〈宇都志意美〉有らむトは[雄略記]
「おみ」の本質音は「OYみ」だと推定する。
現しおみ=うつ+S¥+OYみ→うつし+Oyみ=うつしおみ
[上代2] うつせみ。「うつしおみ」が縮約したもの。
うつせみ〈宇都勢美〉モ かくノミならし[万19 ―4160]
現せみ→うつ+S¥+OYみ→うつS¥OY
¥OYは融合する。{¥OY}は「え甲・え丙」を形成する。
→うつS{¥OY}み=うつせみ
[上代3] うつソみ。「うつしおみ」が縮約したもの。
うつソみ〈宇都曽見〉ノ 人にある吾れや[万2 ―165]
現ソみ=うつ+S¥+OYみ→うつS¥OYみ
¥¥OYでは、完母音素Oは顕存し、¥・Yは潜化する。
→うつSjOyみ=うつSOみ=うつソ乙み
§4 形容源詞の已然用法
係助詞「コソ」を結ぶ語句が「けらしモ」「良しモ」になる用例がある。
然れコソ〈許曽〉 神ノ御代より ヨロしな∧ 此ノ橘を 時じくノ 香くノ木ノ実ト 名付ケけらしモ〈家良之母〉[万18 ―4111]
子ロが襲着ノ 有ろコソ良しモ〈安路許曽要志母〉[万14 ―3509東歌]
係助詞「コソ」を結ぶ活用語は已然形になるのに、終止形の形をした「けらし」「良し」が「コソ」を結ぶのはどうしてか。
「コソ」を結ぶ「けらし」「良し」は、形容詞ではなく、形容源詞である。形容源詞は活用語ではないので末尾は常に「し」である。形容詞なら已然形で結ぶ場合であっても、形容源詞の場合は末尾は「し」になるしかないのである。
已然形の作用をする形容源詞を形容源詞の已然用法と呼ぶ。
「コソ」を形容源詞で結ぶ場合、その末尾は「し」であって、形容詞の終止形末尾と同じ音節である。これでは感嘆の意を十二分に表せないので、形容源詞の後に助詞「モ」を添えて、詠嘆の意を強める。
§5 「苦しみ」に「し」があり、「寒み」に「し」がない理由
【1】形容源詞の語幹に「しみ」「み」が続く用法
形容源詞の語幹に「しみ」あるいは「み」が続いて、“……しいので”の意味を表す用法がある。形容源詞の語幹に「しみ」あるいは「み」が続く用法を形容源詞のみ語法と呼ぶ。
形容源詞の み語法では、「苦しみ」には「し」があるが、「寒み」には「し」がない。形容詞に転じた場合にシク活用する形容源詞の み語法に「し」があり、ク活用する形容詞の み語法には「し」がないのである。
《しみ》 草枕 旅を苦しみ〈久流之美〉 恋ヒをれば[万15 ―3674]
《み》 秋風寒み〈左無美〉 其ノ川ノ傍に[万17 ―3953]
「苦しみ」に「し」があり、「寒み」に「し」がないのはどうしてか。
【2】形容源詞み語法は形容源詞に接尾語「み」が続いたもの
形容源詞み語法は、形容源詞に接尾語「み」が続いたものだと考える。
み語法の「み」の本質音はMYだと推定する。
形容源詞み語法の語素構成は「形容源詞語幹+S¥+MY」である。
「形容源詞語幹+S¥+MY」は熟合あるいは縮約する。
【3】語幹「苦」の末尾音素節の母音部はW、語幹「寒」の末尾音素節の母音部はU
《しみ》 「苦しみ」の語幹「くる」の末尾音素節の母音部はWだと推定する。
《み》 「寒み」の語幹「さむ」の末尾音素節の母音部はUだと推定する。
【4】「苦しみ」「寒み」の遷移過程
《しみ》 苦しみ=苦+し+み=くRW+S¥+MY→くRWS¥MY
S¥の¥は兼音素なので、父音素性と母音素性を兼ね備える。S¥Mの¥はどのような場合に父音素性を発揮し、どのような場合に母音素性を発揮するか。それは、S¥M直前の母音部の音素配列に依る。
S¥M直前の母音部がWである場合には、母音部WはS¥Mの¥に母音素性を発揮させる。¥は、母音素性を発揮すると「い甲・い丙」を形成する。それで、S¥は「し」になる。「S¥=し」の前後で音素節が分離する。
→くRW ―S¥ ―MY=くるしみ
《み》 寒み=寒+S¥+み=さMU+S¥+MY→さMUS¥MY
S¥M直前の母音部がUである場合には、母音部UはS¥Mの¥に父音素性を発揮させる。
¥が父音素性を発揮すると、MUS¥Mでは、母類音素Uの直後で、父音素性を発揮する音素がS・¥・M三連続する。この場合、先頭のSは直前の母類音素Uに付着して音素節MUSを形成する。
¥は直後のMYと結合して音素節¥MYを形成する。
MUSと¥MYの間で音素節が分離する。
→さMUS ―¥MY
音素節MUSでは、末尾にある父音素Sは潜化する(末尾父音素潜化)。
音素節¥MYでは、¥Mが父音部になり、Yが母音部になる。父音部¥Mでは、遊兼音素¥は潜化し、父音素Mは顕存する。
→さMUs ―jMY=さMU ―MY=さむみ甲
このように、「くRWS¥み」ではS・¥が顕存するので「し」が現れるが、「さMUS¥み」ではS・¥が潜化するので「し」は脱落する。
§6 「悲しさ」「羨しさ」に「し」があり、「無さ」「良さ」に「し」がない理由
【1】形容源詞サ語法
形容源詞の語幹に「しさ」あるいは「さ」が続いて、“……しい状況”“……しいと強く感じる”の意味を表す用法がある。これを形容源詞のサ語法と呼ぶ。
サ語法では、「悲しさ」には「し」があるが、「無さ」には「し」がない。
《しさ》 母が悲しさ〈迦奈斯佐〉[万5 ―890一云]
《さ》 為る為方ノ無さ〈奈左〉[万17 ―3928]
「悲しさ」に「し」があり、「無さ」に「し」がないのはどうしてか。
【2】形容源詞サ語法は形容源詞に接尾語「さ」が続いたもの
形容源詞サ語法は、形容源詞に接尾語「さ」が続いたものだと考える。
形容源詞サ語法の「さ」をSAと表記する。形容源詞サ語法の語素構成は「形容源詞語幹+S¥+SA」である。
【3】語幹「悲」の末尾音素節の母音部は∀、語幹「無」の末尾音素節の母音部はA
《しさ》 「悲しさ」の語幹「かな」の末尾音素節の母音部は∀だと推定する。
《さ》 「無」の語幹「な」の末尾音素節の母音部はAだと推定する。
【4】「悲しさ」「無さ」の遷移過程
《しさ》 悲しさ=かN∀+S¥+SA→かN∀S¥SA
S¥S直前の母音部が∀である場合、母音部∀はS¥Sの¥に母音素性を発揮させる。S¥は「し」になる。S¥の前後で音素節が分離する。
→かN∀ ―S¥ ―SA=かなしさ
《さ》 無さ=NA+S¥+SA→NAS¥SA
S¥S直前の母音部がAである場合、母音部AはS¥Sの¥に父音素性を発揮させる。母類音素Aの直後で父音素性を発揮する音素がS・¥・S三連続する。この場合、先頭のSは直前の母類音素Aに付着して音素節NASを形成する。NASと¥SAの間で音素節が分離する。父音部¥Sでは、遊兼音素¥は潜化し、父音素Sは顕存する。
=NAS ―¥SA→NAs ―jSA→NA ―SA=なさ
【5】「羨しさ」「良さ」の遷移過程
形容源詞サ語法「羨しさ」には「し」があるが、形容源詞サ語法「良さ」には「し」がない。
《しさ》 妹らを見らむ 人ノ羨しさ〈等母斯佐〉[万5 ―863]
《さ》 今宵枕かむト 思へるが良さ〈吉紗〉[万10 ―2073]
《しさ》 「羨し」の語幹「トモ」の末尾音素節の母音部はΩだと推定する。
羨しさ=トMΩ+S¥+SA→トMΩS¥SA
S¥S直前の母音部がΩである場合、母音部ΩはS¥Sの¥に母音素性を発揮させる。S¥は「し」になる。S¥の前後で音素節が分離する。
→トMΩ ―S¥ ―SA=トモ乙しさ
《さ》 良さ=YYO+S¥+SA→YYOS¥SA
S¥S直前の母音部がOである場合、母音部OはS¥Sの¥に父音素性を発揮させる。母類音素Oの直後で父音素性を発揮する音素がS・¥・S三連続する。この場合、先頭のSは直前の母類音素Oに付着して音素節YYOSを形成する。YYOSと¥SAの間で音素節が分離する。
→YYOS ―¥SA→YyOs ―jSA=YO ―SA=ヨ乙さ