第60章 形容詞終止形語尾にカ行音節がない理由

§1 「苦し」終止形が「くるし」に、「寒し」終止形が「さむし」になる理由

上代語・平安語の形容詞(カリ活用を除く)は、シク活用でもク活用でも、終止形以外では語尾にカ行音素節「き」「く」「け」がある。だが、終止形では、シク活用でもク活用でも、語尾にカ行音素節はない。その理由を述べる。

【1】形容詞の語幹の定義

上代語・平安語での形容詞で、終止形から、その末尾の「し」を除去した部分を形容詞の語幹と呼ぶ。
現代語で、終止形の末尾に「しい」がある形容詞では「しい」を除去した部分を語幹と呼び、終止形の末尾に「しい」ではなく「い」がある形容詞では「い」を除去した部分を語幹と呼ぶ。

【2】形容詞の語素構成

シク活用形容詞の語素構成とク活用形容詞の語素構成は同一で、形容詞語幹に、形容源化語素S¥と、形容詞の活用語足が続いたものである。

【3】形容詞終止形の活用語足は¥

形容詞終止形の活用語足は¥だと推定する。
形容詞の終止形にカ行音素節がないのは、形容詞終止形の活用語足にKが含まれないからである。

【4】上代語でシク活用「苦し」終止形が「くるし」に、ク活用「寒し」終止形が「さむし」になる遷移過程

《シク活》 吾れは苦し〈倶流之〉ゑ[天智紀10年 紀歌126]
終止形「苦し」の語素構成は、語幹「くる=くRW」に、形容源化語素S¥と、形容詞終止形の活用語足¥が続いたものである。
苦し=くRW+S¥+¥→くRWS¥¥
S¥¥直前の母音部がどのようであっても、¥¥は二音素とも母音素性を発揮する。S¥¥は音素節を形成する。RWとS¥¥の間で音素節が分離する。母音部¥¥では、前の¥は潜化し、後の¥(終止形の活用語足たる¥)は顕存する。
→くRW ―S¥¥=くRW ―Sj¥=くRW ―S¥=くるし
《ク活》 秋ノ夜は あかトき寒し〈左牟之〉[万17 ―3945]
終止形「寒し」の語素構成は、語幹「さむ=さMU」に、形容源化語素S¥と、活用語足¥が続いたもの。
寒し=さMU+S¥+¥→さMUS¥¥→さMU ―S¥¥→さMU ―Sj¥
=さMU ―S¥=さむし


§2 現代語終止形で「くるしい」に「し」があり、「さむい」に「し」がない理由

【1】現代語形容詞の語素構成は上代語と同一

現代語の形容詞の語素構成は、シク活用・ク活用とも上代語と同一である。

【2】現代語シク活用形容詞終止形の語幹直後が「しい」になる遷移過程

《シク活》 苦しい=くRW+S¥+¥→くRWS¥¥
S¥¥直前の母音部がWである場合、Wは二つの¥の双方を顕存させ、双方に母音素性を発揮させる。¥¥は、上代東方語と同様、融合する。{¥¥}は長音「いー」になる。S{¥¥}は「しー」になる。「しー」は現代仮名遣では「しい」と表記される。
→くRWS¥¥=くRWS{¥¥}=くるしー=くるしい
《シク活》 悲しい=かN∀+S¥+¥→かN∀S¥¥
∀は二つの¥の双方を顕存させ、母音素性を発揮させる。¥¥は融合する。
→かN∀S¥¥→かなS{¥¥}=かなしー=かなしい

【3】現代語ク活用形容詞終止形の語幹直後が「い」になる遷移過程

《ク活》 寒い=さMU+S¥+¥→さMUS¥¥
S¥¥直前の母音部がUである場合、UはS直後の¥には父音素性を発揮させ、末尾の¥には母音素性を発揮させる。
母類音素Uの直後では、父音素性を発揮する音素がS・¥二連続する。それでその先頭のSは直前のUに付着して音素節MUSを形成する。¥¥は音素節を形成する。
→さMUS ―¥¥
音素節MUSでは、末尾の父音素Sは潜化する(末尾父音素潜化)。
¥¥では、前の¥は父音部になり、後の¥は母音部になる。父音部たる¥は潜化するが、母音部たる¥は「い」を形成するので、j¥は「い」になる。
→さMUs ―¥¥→さMU ―j¥=さむい
《ク活》 無い=NA+S¥+¥→NAS¥¥
S¥¥直前の母音部がAである場合、AはS直後の¥には父音素性を発揮させ、末尾の¥には母音素性を発揮させる。母類音素Aの直後では、父音素性を発揮する音素がS・¥二連続する。それでSは直前のAに付着して音素節NASを形成する。¥¥は音素節を形成する。
→NAS ―¥¥→NAs ―¥¥=NA ―j¥=ない