§1 「悲し」の連用形「かなしく」に「し」がある理由 ―シク形容∀群
【1】シク活用形容詞連用形「悲しく」の遷移過程
悲しく〈可奈之久〉思ほゆ[万17 ―4016]
形容詞連用形の活用語足はKWUだと推定する。
シク活用形容詞連用形「悲しく」の語素構成は、語幹「かN∀」に、形容源化語素S¥と、形容詞連用形の活用語足KWUが続いたもの。
悲しく=かN∀+S¥+KWU→かN∀S¥KWU
母音部∀にS¥Kが続く場合、∀は¥に母音素性を発揮させる。S¥の前後で音素節が分離する。
→かN∀ ―S¥ ―KWU
KWUでは、Kが父音部になり、WUが母音部になる。母音部WUでは、兼音素Wは潜化し、完母音素Uは顕存する。
→かN∀ ―S¥ ―KwU=かN∀ ―S¥ ―KU=かなしく
【2】シク形容∀群
「かなしく」の遷移過程で述べたことを一般化して次のように考える。
語幹末尾音素節の母音部が∀である形容詞はシク活用する。
語幹末尾音素節の母音部が∀である形容詞・形容源詞をシク形容∀群と呼ぶ。
語幹末尾音素節が「あ」段の形容詞・形容源詞のうち、以下のものはシク形容∀群に属する。
「悪しき〈安之伎〉」[万 ―3737]・「あたらしき〈婀?羅斯枳〉」[書紀歌80]・「あやしく〈安夜思苦〉」[万18 ―4075]・「いやしき〈伊夜之吉〉」[万5 ―848]・「うやうやしく」宇夜宇夜自久[続紀宣命27]・「コきだしき〈許貴太斯伎〉」[続紀天平元年宣命7]・「嶮しけド〈佐賀斯祁杼〉」[仁徳記歌70]・「俄しく〈尓波志久〉」[万20 ―4389防人歌]・「愛しき〈波思吉〉」[万2 ―113]・「久しく〈比佐斯久〉」[万5 ―814]・「まだしみ〈麻太之美〉」[万 ―4207]。
§2 「深し」の連用形「ふかく」に「し」がない理由 ―ク形容A群
【1】ク活用形容詞連用形「深く」の遷移過程
水底深く〈布可久〉 思ひつつ[万20 ―4491]
ク活用形容詞連用形「深く」の語素構成は、語幹「深」に、形容源化語素S¥と、形容詞連用形の活用語足KWUが続いたもの。
語幹「深」の末尾音素節の母音部はAだと推定する。
深く=ふKA+S¥+KWU→ふKAS¥KWU
母音部AにS¥Kが続く場合、Aは¥に父音素性を発揮させる。Aの後に、父音素性を発揮する音素がS・¥・K三連続する。それでSはAに付着して音素節KASを形成する。KASと¥KWUの間で音素節が分離する。
→ふKAS ―¥KWU
KASでは、音素節末尾のSは潜化する(末尾父音素潜化)。
¥KWUの父音部¥Kでは、遊兼音素¥は潜化し、父音素Kは顕存する。
Kの直後のWは母音素性を発揮する。母音部WUでは、兼音素Wは潜化し、完母音素Uは顕存する。
→ふKAs ―jKWU→ふKA ―KwU→ふKA ―KU=ふかく
【2】ク形容A群
語幹末尾音素節の母音部がAである形容詞はク活用する。
語幹末尾音素節の母音部がAである形容詞・形容源詞をク形容A群と呼ぶ。
語幹末尾音素節が「あ」段の形容詞・形容源詞のうち、以下に挙げる形容詞・形容源詞はク形容A群に属する。
「あかき〈安加吉〉」[万20 ―4465]・「荒き〈安良伎〉」[万15 ―3688]・「痛き〈伊多伎〉」[万20 ―4307]・「堅く〈加多久〉」[雄略記歌102]・「辛き〈可良伎〉」[万15 ―3652]・「高き〈多可吉〉」[万174003]・「近く〈知可久〉」[万15 ―3635]・「つらけく〈都良計久〉」[万5 ―897]・「無く〈奈久〉」[万1 ―36]・「長く〈那我倶〉」[書紀歌78]・「ねたけく〈祢多家口〉」[万18 ―4092]・「早く〈波椰区〉」[書紀歌67]・「短き〈美自可伎〉」[万15 ―3744]・「ゆらみ〈由良美〉」[清寧記歌107]・「若く〈倭柯倶〉」[書紀歌117]。
§3 形容詞連用形にラ変動詞「有り」が下接・縮約したカリ活用形容詞
山田孝雄が『奈良朝文法史』196~199頁でいうように、形容詞連用形に、ラ変動詞「有り」が下接・縮約した語がある。いわゆるカリ活用である。
《未然》 見が欲しからむ〈保之加良武〉[万17 ―3985]
《連用》 悲しかりけり〈加奈之可利家理〉[万5 ―793]
《連体》 悪しかる〈安志可流〉咎モ[万14 ―3391東歌]
《已然》 天地ノ 神は無かれや〈无可礼也〉[万19 ―4236]
「欲しからむ」は、形容詞連用形「欲しく=ほしKWU」に、ラ変動詞未然形「あら=AYら」と、「む」が続いたもの。
欲しからむ=欲しKWU+AYらむ→ほしKWUAYらむ
母音部WUAYでは後方にある完母音素Aのみが顕存し、他は潜化する。
→ほしKwuAyらむ=ほしKAらむ=ほしからむ
§4 桜井茂治説と私見との相違点
形容詞については多くの説が提起されているが、ここでは、桜井茂治の「形容詞の活用形の成立について」『国学院雑誌』66 ―8の見解と私見との相違点について述べる。
【1】シク活用形容詞の連用形・終止形の語素構成について
桜井は46頁で、シク活用「恋ほし」でいえば、その連用形を「コホ+シ+ク」と分解し、終止形を「コホ+シ」と分解する。
〔シク活用形容詞の連用形を三つの要素に分解する〕という点については私は桜井説に従う(但し、私は語幹「恋ほ」をさらに動詞語素「恋PW」と¥Ωとに分解する)。
終止形については、私見は桜井説とは異なる。桜井は終止形「恋ほし」を「恋ほ」と「し」との二つに分けるが、私は終止形「恋ほし」を、語幹「恋ほ」と、形容源化語素S¥と、終止形活用語足¥、三つの要素に分解する。桜井は仮名単位で活用語の構成を考えるが私は音素単位で考えるのである。
未然形・連体形・已然形をも総合していえば、私見は〔形容詞の五活用形は、ク活用・シク活用共に、語幹と、形容源化語素S¥と、活用語足の三要素に分解できる〕という統一性がある。
【2】形容詞の「し」の品詞について
桜井は44頁で「強めの助詞」に注目するという。また、過去助動詞「き」の連体形とも関連があるという。
これに対し私は、形容源化語素「し」は、「強めの助詞」とは別の語であり、過去助動詞「き」の連体形「し」とも別の語だと考える。
§5 形容詞連用形が平安語でウ音便、現代語で拗音便・オウ音便を起こす理由
形容詞連用形が平安語・現代語で音便を起こす基本的理由は、形容詞連用形の活用語足KWUの部分で、Wが父音素性を発揮することにある。
【1】平安語で形容詞連用形がウ音便を起こす遷移過程
(1)平安語でシク活用連用形がウ音便を起こす遷移過程。
平安語のシク活用形容詞連用形のウ音便では「語幹+し+う」になる。
かなしうおぼさるるに[源氏物語桐壺]
平安語の形容詞連用形の語素構成は上代語と同一である。
悲しう→かN∀S¥KWU→かN∀ ―S¥KWU
上代語のシク活用と同じく、平安語のシク活用ではS¥の¥は母音素性を発揮する。この後、平安語では、上代語とは異なり、KWUでWが父音素性を発揮することがある。この場合、S¥の後に、父音素性を発揮する音素がK・W二連続する。それでKは¥に付着して音素節S¥Kを形成する。
→かN∀ ―S¥K ―WU
S¥K末尾のKは潜化する。WUはワ行・U段の「う」になる。
→かなS¥k ―WU=かなS¥ ―WU=かなしう
(2)平安語でク活用連用形がウ音便を起こす遷移過程。
平安語でク活用連用形がウ音便を起こすと、「語幹+う」になる。
雪のいとたかう降たるを[枕草子280段]
語幹「高」は「たKA」だと推定する。
高う=たKA+S¥+KWU→たKAS¥KWU
AはS¥Kの¥に父音素性を発揮させる。SはAに付着して音素節KASを形成する。
→たKAS ―¥KWU→たKAs ―¥KWU=たKA ―¥KWU
¥KWUでは、Wは父音素性を発揮し、¥KWが父音部になる。父音部¥KWでは、まず遊兼音素¥が潜化する。
→たKA ―jKWU=たKA ―KWU
父音部KWでは、Wが潜化することもあり、Kが潜化することもある。Kが潜化した場合、ウ音便になる。
→たKA ―kWU=たKA ―WU=たかう
(3)ウ音便がシク活用で多く起きる理由。
桜井茂治は「形容詞の活用形の成立について」46~47頁で、“共時的に見れば、平安語で形容詞連用形がウ音便になる数は、シク活用の方がク活用よりもはるかに多い”と指摘する。たとえば『源氏物語大成索引』によれば、ウ音便化する比率は、シク活用では42.1%に達するのに対し、ク活用では18.8%しかない。
なぜ、平安語でのウ音便は、シク活用で多く起きるのか。
上述の私見によるならその理由を説明できる。
シク活用では、「S¥KWU」になった後、Wが父音素性を発揮さえすれば、Kは¥に付着して潜化し、ウ音便になる。
これに対し、ク活用では、「S¥KWU」になった後、Wが父音素性を発揮しても、それだけではウ音便にならない。父音部KWでKが潜化しないとウ音便にはならない。
それで、シク活用ではウ音便が多く起き、ク活用では少なく起きる。
【2】現代語でシク活用連用形が拗音便に、ク活用連用形がオウ音便になる遷移過程
(1)現代語でシク活用連用形が拗音便になる遷移過程。
従来、現代語でシク活用形容詞連用形の末尾が「しゅう」になる音便はウ音便と呼ばれているが、重要なのは「しゅ」という拗音を含む音便だということである。よって、本書ではこれを拗音便と呼ぶ。
シク活用連用形「悲しく」が現代語で拗音便「かなしゅう」になる遷移は、「かなS¥k ―WU」になるところまでは平安語のウ音便と同一である。現代語ではその後、S¥とWがあらためて熟合し、一つの音素節になる。
[現代] 悲しゅう→かN∀ ―S¥k ―WU=かなS¥ ―WU→かなS¥Wう→かなShWう=かなしゅう
(2)現代語でク活用連用形がオウ音便になる遷移過程。
現代語では「高く=たかく」の音便は「たこう」になる。「あ」段たる「か」が「お」段の「こ」になり、「く」が「う」になるのである。そこで本書ではこれをオウ音便と呼ぶ。
「たKA ―WU」になるところまでは平安語のウ音便と同じ遷移である。その後、現代語ではKAとWUはあらためて熟合し、一つの音素節になる。
高う→たKAs ―jKWU→たKA ―kWU=たKA ―WU→たKAWU
母音部AWUは融合して「お」の長音「おー」になる。K{AWU}は「こー」になる。「こー」は現代語では「こう」と表記される。
→たK{AWU}→たこー=たこう