§1 「幸く」が「さきく」「さけく」「さケく」「さく」と読まれる理由
【1】近畿語の副詞「さき甲く」は東方語では「さけ甲く」「さケ乙く」「さく」とも読まれる
[近畿] さきく〈佐伎久〉いまして 早帰りませ[万5 ―894]
[東方1] さけ甲く〈佐祁久〉ト申す[万20 ―4372防人歌]
[東方2] さケ乙く〈佐気久〉あり待て[万20 ―4368防人歌]
[東方3] さく〈佐久〉あれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
[万20 ―4346防人歌]
【2】「幸く」が近畿語で「さき甲く」、東方語で「さけ甲く」「さケ乙く」「さく」になる理由
「幸く」の本質音は「さKYΩYKU」だと推定する。
[近畿] 母音部がYΩYである場合、近畿語では、YはΩを双挟潜化する。
幸く=さKYΩYKU→さKYωYKU=さKYYKU
→さKyYKU=さKYKU=さき甲く
[東方1] YΩYは融合する。{YΩY}は「え甲」を形成する。
幸く→さK{YΩY}KU=さけ甲く
[東方2] {YΩY}の末尾のYが潜化する。{YΩy}は「エ乙」を形成する。
幸く→さK{YΩY}く→さK{YΩy}く=さケ乙く
[東方3] 双挟音素配列KYΩYKで、YはΩを双挟潜化し、そのYωYをKが双挟潜化する。
幸く=さKYΩYKU→さKYωYKU=さKYYKU
→さKyyKU=さKKU→さKkU=さKU=さく
§2 形容詞連体形語尾が「き甲」「け甲」「ケ乙」になる理由
【1】形容詞連体形語尾は近畿語では「き甲」「け甲」になり、東方語ではさらに「ケ乙」にもなる
[近畿1・東方1] 「き甲」になる。
《シク活》 思ふそら 苦しき甲〈久流之伎〉モノを[万17 ―3969]
愛しき甲〈加奈思吉〉子ロが 布干さるかモ[万14 ―3351東歌]
《ク活》 衣手寒き甲〈佐牟伎〉 モノにソありける[万15 ―3591]
富士ノ嶺ノ いや遠長き甲〈奈我伎〉 山路をモ[万14 ―3356東歌]
[近畿2・東方2] 「け甲」になる。
《シク活》 愛しけ甲やし〈波斯祁夜斯〉 吾家ノ方よ[景行記歌32]
愛しけ甲〈可奈之家〉子ロを[万14 ―3564東歌]
[東方3] 「ケ乙」になる。
《シク活》 悪しケ乙〈阿志気〉人なり[万20 ―4382防人歌]
うつくしケ乙〈宇都久之気〉 ま児が手離り[万20 ―4414防人歌]
《ク活》 長ケ乙〈奈賀気〉此ノ夜を[万20 ―4394防人歌]
葦火焚ケトモ 住み良ケ乙〈与気〉を[万20 ―4419防人歌]
【2】形容詞連体形の活用語足はKYΩY
近畿語で「き甲」「け甲」になり、東方語では「き甲」「け甲」「ケ乙」になる遷移は、「幸く」第二音素節の変化に似る。そこで形容詞連体形の活用語足は、「幸く」第二音素節と同じで、KYΩYだと推定する。
§3 連体形「苦しき」に「し」があり、連体形「寒き」に「し」がない理由 ―シク形容W群・ク形容U群
【1】「苦し」の連体形が「くるしき」になる遷移過程
「苦しき」は、語幹「くRW」に、形容源化語素S¥と、形容詞連体形の活用語足KYΩYが続いたものである。
[近畿1・東方1]《シク活》 苦しき=くRW+S¥+KYΩY
→くRWS¥KYΩY
母音部WにS¥Kが続く場合、Wは¥に母音素性を発揮させる。S¥の前後で音素節が分離する。YΩYでは、YはΩを双挟潜化する。
→くRW ―S¥ ―KYωY→くるしKyY=くるしKY=くるしき甲
【2】シク形容W群
語幹末尾音素節の母音部がWである形容詞はシク活用する。
語幹末尾母音部がWである形容詞・形容源詞をシク形容W群と呼ぶ。
以下に挙げる形容詞はシク形容W群に属する。「現しき」〈宇都志枳〉[神代上紀第五段一書第一「顕見蒼生」注]および〈宇都志伎此〉[古事記上巻]・「くすしく〈久須之久〉」[続紀天平神護二年宣命41]・「涼しき〈須受之伎〉」[万20 ―4306]。
【3】「寒し」の連体形が「さむき」になる遷移過程
連体形「寒き」は、語幹「さむ=さMU」に、S¥と連体形活用語足KYΩYが続いたもの。
[近畿1・東方1]《ク活》 寒き=さMU+S¥+KYΩY
→さMUS¥KYΩY
母音部UにS¥Kが続く場合、Uは¥に父音素性を発揮させる。母音素Uの直後で、父音素性を発揮する音素がS・¥・K三連続する。それでSはUに付着して音素節MUSを形成する。
→さMUS ―¥KYΩY→さMUs ―¥KYΩY
¥KYΩYの父音部¥Kでは、¥は潜化し、Kは顕存する。
→さMU ―jKYωY→さMU ―KyY=さMU ―KY=さむき甲
【4】ク形容U群
語幹末尾音素節の母音部がUである形容詞はク活用する。
語幹末尾母音部がUである形容詞・形容源詞をク形容U群と呼ぶ。
以下に挙げる形容詞はク形容U群に属する。「厚き〈阿都伎〉」[仏足石歌12]・「憂けく〈宇計久〉」[万5 ―897]・「薄き〈宇須伎〉」[万20 ―4478]・「心憂く〈情具久〉」[万4 ―735]・「憎く〈尓苦久〉」[万1 ―21]・「ぬるく〈奴流久〉」[万16 ―3875]・「古き〈布流伎〉」[万18 ―4077]・「安く〈夜須久〉」[允恭記歌78]。
【5】形容詞連体形の語尾が「け甲」「ケ乙」になる遷移過程
[近畿2・東方2] 語尾が「け甲」になる。YΩYは融合する。
《シク活》 愛しけ=P∀+S¥+KYΩY
→P∀S¥KYΩY→P∀ ―S¥ ―K{YΩY}=はしけ甲
[東方3] 語尾が「ケ乙」になる。{YΩY}の末尾のYは潜化する。
《シク活》 悪しケ=∀+S¥+KYΩY→∀S¥K{YΩY}
→∀ ―S¥ ―K{YΩy}→あしケ乙
《ク活》 長ケ=なGA+S¥+KYΩY→なGAS ―¥KYΩY
→なGAs ―jK{YΩY}→なGA ―K{YΩy}=ながケ乙
§4 連体形「トモしき」に「し」があり、連体形「青き」に「し」がない理由 ―シク形容Ω群・ク形容O群
【1】「トモし」の連体形が「トモしき」になる遷移過程
身ノ盛り人 羨しき〈登母志岐〉ロかモ[雄略記歌94]
「トモしき」は、語幹「トモ」に、S¥と、連体形活用語足KYΩYが続いたもの。「トモ」の「モ」の母音部はΩだと推定する。
《シク活》 羨しき=トMΩ+S¥+KYΩY→トMΩS¥KYωY
母音部ΩにS¥Kが続く場合、Ωは¥に母音素性を発揮させる。
→トMΩ ―S¥ ―KyY=トMΩしKY=トモ乙しき甲
【2】シク形容Ω群
語幹末尾母音部がΩである形容詞はシク活用する。
語幹末尾音母音部がΩである形容詞・形容源詞をシク形容Ω群と呼ぶ。
以下に挙げる形容詞・形容源詞はシク形容Ω群に属する。「コゴしみ〈許其思美〉」[万3 ―414]・「惜しき〈乎思吉〉」[万17 ―3904]。
【3】「青し」の連体形が「青き」になる遷移過程
青き〈阿遠岐〉御着しを 真粒さに 取り装ひ[古事記上巻歌]
「青き」は語幹「青=AWO」に、S¥と、KYΩYが続いたもの。語幹末尾の母音部は完母音素Oである。
青き=AWO+S¥+KYΩY→AWOS¥KYΩY
母音部OにS¥Kが続く場合、Oは¥に父音素性を発揮させる。母類音素Oの直後で父音素性を発揮する音素がS・¥・K三連続する。それでSはOに付着して音素節WOSを形成する。
→あWOS ―¥KYΩY→あWOs ―jKYωY→あWO ―KyY=あWO ―KY
=あをき甲
【4】ク形容O群
語幹末尾音素節の母音部がOである形容詞はク活用する。
語幹末尾母音部がOである形容詞・形容源詞をク形容O群と呼ぶ。
以下に挙げる形容詞・形容源詞はク形容O群に属する。
「良き〈曳岐〉」「天智紀10年 書紀歌126」・「良さ〈吉紗〉」「万10 ―2073」。
【5】ク活用する助動詞「ゴトし」
行く水ノ 返らぬゴトく〈其等久〉 吹く風ノ 見イエぬがゴトく〈其登久〉[万15 ―3625]
「ゴトし」の「ト」の母音部はOだと推定する。助動詞「ゴトし」はク形容O群に属する。
§5 ク活用「広き」 ―ク形容YΩ群
【1】「広」の本質音は「ひRYΩ」
上代語では「広」は「ひロ乙」とも「ひり」とも読まれる。
[上代1] 広津、此を、ひロ乙きつ〈比慮岐頭〉ト云ふ。
[雄略紀七年注]
[上代2] 推古朝遺文によれば、「広」は「ひり」とも読まれる。欽明天皇の諡号は『日本書紀』によれば「天国排開広庭尊」だが、その「広」の部分は、「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」所引の「塔露盤銘」および「天寿国繍帳銘」では「比里」と記される。
「ロ乙」とも「り」とも読まれる「広」第二音素節の本質音はRYΩだと推定する。
[上代1] 広=ひRYΩ→ひRyΩ=ひRΩ=ひロ乙
[上代2] 広=ひRYΩ→ひRYω=ひRY=ひり
【2】ク活用連体形「広き」の遷移過程
広き=ひRYΩ+S¥+KYΩY→ひRYΩS¥KYωY
母音部YΩにS¥Kが続く場合、YΩは¥に父音素性を発揮させる。母類音素Ωの直後で父音素性を発揮する音素がS・¥・K三つ続くので、SはΩに付着して音素節RYΩSを形成する。
→ひRYΩS ―¥KYY→ひRyOs ―jKyY
=ひRO ―KY=ひロ乙き甲
【3】ク形容YΩ群
語幹末尾母音部がYΩである形容詞をgク形容YΩ群と呼ぶ。
§6 現代語形容詞連体形が「くるしい」「さむい」になる理由
現代語の形容詞連体形語尾が「い」になる基本的理由は、形容詞連体形の活用語足KYΩYで、K直後のYが父音素性を発揮することにある。
【1】現代語シク活用「苦しい」の連体形「くるしい」の遷移過程
現代語の形容詞連体形の語素構成は上代語の連体形「苦しき」と同一である。
《連体》 苦しい=くRW+S¥+KYΩY→くRWS¥KYΩY
→くRW ―S¥KYΩY=くるS¥KYΩY
現代語のS¥KYΩYでは、Kの直後のYは父音素性を発揮する。
母音素性を発揮する¥の直後で、父音素性を発揮する音素がK・Y二連続する。それでKは¥に付着して音素節S¥Kを形成する。
→くるS¥K ―YΩY→くるS¥k ―YΩY=くるS¥ ―YΩY
YΩYでは、初頭のYが父音部になり、ΩYが母音部になる。母音部ΩYではΩは潜化し、Yは顕存する。YYは「い」になる。
→くるし ―YωY=くるし ―YY=くるしい
【2】現代語ク活用「寒い」の連体形「さむい」の遷移過程
《連体》 寒い=さMU+S¥+KYΩY→さMUS¥KYΩY
母音部UはUS¥Kの¥に父音素性を発揮させる。
現代語のS¥KYΩYでは、K直後のYは父音素性を発揮する。
母類音素Uの直後では、父音素性を発揮する音素がS・¥・K・Y四連続するので、Sは直前のUに付着して、音素節MUSを形成する。
→さMUS ―¥KYΩY→さMUs ―¥KYΩY
¥KYΩYでは¥KYが父音部になり、ΩYが母音部になる。父音部¥KYでは、Yが顕存し、¥・Kは潜化する。母音部ΩYでは、Yは顕存し、Ωは潜化する。
→さMU ―jkYωY=さむ ―YY=さむい
§7 ク活用「古し」の語素構成
【1】「あかる橘」「若やる胸」「大日る女」の「る」は助詞「る」
形容詞語幹や、「形容詞語幹+助詞や」や、名詞に付いて、後続語を修飾する助詞「る」がある。
(1)助詞「る」の用例。
① あかる〈安可流〉橘 髻に挿し [万19 ―4266]
「あかる」の「あか」は「明K」から派生した語。「あかる」は“赤みがかった”の意。
② 若やる〈和加夜流〉胸を 微手手き[記上巻歌3b]
「若やる」の「や」は助詞。「若やる」は“若若しい”の意。
③ 大日?貴、此を、おほひるめノむち〈於保比屡咩能武智〉ト云ふ。
[神代上紀第五段本文注]
この「る」は譬喩を表す。「おほひるめ」は“大日る女”で、“大いなる太陽のような女”の意で、天照大神・日神の別名である。
(2)助詞「る」はRU。
助詞「る」の本質音はRUだと推定する。
【2】ク活用「古し」の語素構成
(1)動詞「古る」の動詞語素は「ふRW」。
奈良ノ都は 古りぬれト〈布里奴礼登〉[万17 ―3919]
「ふり」は二音節だから上甲段ではなく、上二段または四段だが、平安語の用例に已然形「我身ふるれば」[古今和歌集14 ―736]があるので、上二段だと考える。上二段の動詞語素の末尾はWなので、「古る」の動詞語素は「ふRW」だと推定する。
(2)上代語ク活用形容詞連体形「古き」の遷移過程
吾が夫子が 古き〈布流伎〉垣内ノ 桜花[万18 ―4077]
「古き」の語素構成は、動詞語素「ふRW」に、助詞「る=RU」と、S¥と、活用語足KYΩYが続いたもの。
古き=古RW+RU+S¥+KYΩY→ふRWRUS ―¥KYΩY
RWRでは、RはWを双挟潜化する。
→ふRwRUs ―jKYωY→ふRrU ―KyY→ふRU ―KY=ふるき甲