§1 形容詞未然形仮定用法の用例
形容詞未然形には、仮定条件を表す用法と、否定助動詞「ず」・意志助動詞「む」に上接する用法とがある。前者を形容詞の未然形仮定用法と呼び、後者を形容詞の未然形ずむ用法と呼ぶ。
【1】形容詞未然形仮定用法の用例
形容詞未然形仮定用法の語尾は、近畿語では「け甲」だが、東方語では「か」にもなる。
《ク活》 [近畿] 惜しき 偉儺部ノ手組み 懸ケし墨縄 其が無け甲ば〈那稽麼〉 誰れか懸ケむヨ[雄略紀13年 紀歌80]
「無けば」は“無かったならば”の意であり、未然形の仮定用法である。
[東方] 将来をな兼ねソ 現在かし良かば〈余加婆〉[万14 ―3410東歌]
「良かば」は“良かったならば”の意であり、未然形の仮定用法である。
《シク活》 恋ヒしけ甲ば〈古非思家婆〉 来ませ吾が夫子 垣つ柳 末摘み枯らし 吾れ立ち待たむ[万14 ―3455東歌]
万3455の「恋ヒしけば」は未然形仮定用法であり、“(あなたが私を)恋しかったら”の意だと考える。これに対し、山口佳紀は『古代日本語文法の成立の研究』295~297頁で、「必ずしも仮定条件とは言えないばかりか、むしろ確定条件と解すべきではないか」といい、「「恋し」と感ずるのはむしろ作者の方で、「恋しいからいらっしゃって下さい、吾が背子よ」と呼びかけたもの」と説明する。確定条件を表すのは已然形だから、山口は万3455の「恋ヒしけば」を已然形だと論定するのである。山口の解釈と論定によるなら、この歌では活用語の主語が二度、転換することになる。まず、作者が「恋ヒし」と感じ、次に主語が転換して「吾が夫子」が「来」、その後また主語が転換して、作者が「摘み枯らし」「立ち待たむ」。このような錯列した主語述語関係よりも、〔「吾が夫子」が「恋ヒし」と思って「来」る、それを作者が「摘み枯らし」つつ「立ち待たむ」〕と解釈した方が単純かつ自然である。よって私は、万3455の「恋ヒしけ」は未然形仮定用法だと論定する。
【2】形容詞未然形語尾「け」「か」についての従来説
山田孝雄は『奈良朝文法史』199~200頁で、形容詞未然形語尾「け」「か」を形容詞カリ活用未然形「から」に関係付けて次のとおりいう。「「かり」の活用は下に複語尾助詞の接してある時に往々音の上に変化を生ずることあり。即ち未然形の「から」が「か」と約せられ、又転じて「け」となることあり。「かば」「けば」「けむ」「けなく」などいふ形これなり。」
私は山田説に賛同できない。その理由を二つ挙げる。
第一。動詞には、未然・連用・終止・連体・已然・命令の六活用がある。そして形容詞には固有の連用形・終止形・連体形は確実にある。それなら、形容詞に固有の未然形があって当然である。
上に挙げた「恋ヒしけ」や「良か」、そして「速けむ」[古事記歌50]の「速け」や「無けなく」[万3743]の「無け」などを形容詞未然形だと見ても何の矛盾もない。これらを形容詞未然形だとするのは妥当であり、単純である。これらを“「形容詞連用形語尾く+ラ変未然形あら」の縮約・音韻転化”だとするのは不自然であり、迂遠である。
第二。「から」は「連用形語尾く+ラ変あら」が縮約したものだから、仮に形容詞カリ活用未然形の「から」が縮約して「か」になるものならば、ラ変の「あら」が「あ」になる用例があって当然である。だが、そのような用例は存在しない。また、「から」が縮約して「け」になるものならば、ラ変の「あら」が「え」になる用例があって当然である。だが、そのような用例は存在しない。
§2 形容詞未然形仮定用法の遷移過程
【1】形容詞未然形仮定用法の活用語足はKYAYM
形容詞未然形仮定用法の語尾が「無け甲ば」「良かば」のように「け甲」にも「か」にもなるという変化は、四段動詞が助動詞「り」に上接する「咲け甲り」「向かる」の場合の動詞語尾の変化に似る。「咲け甲り」「向かる」の「け」「か」の音素配列は共にKYAYである。そこで、形容詞未然形仮定用法の活用語足はKYAYMだと推定する。
【2】ク活用容詞未然形仮定用法の遷移過程
[近畿] 無けば=NA+S¥+KYAYM+P∀→NAS ―¥KYAY{MP}∀
→NAs ―jK{YAY}ば=NA ―K{YAY}ば=なけ甲ば
[東方] 良かば=YYO+S¥+KYAYM+P∀→YyOS ―¥KYAYば
母音部YAYでは、完母音素Aは顕存し、Yは二つとも潜化する。
→YOs ―jKyAyば=YO ―KAば=ヨ乙かば
【3】シク活用容詞未然形仮定用法の遷移過程
(1)シク活用「恋ヒし」の語幹「恋ヒ」の語素構成。
「恋ヒし」第一音素節は近畿語では「こ甲」〈古非之久〉[万17 ―3928]になり、東方語では「く」〈苦不志久〉[万20 ―4345防人歌]にもなる。その母音部は、『上代特殊仮名の本質音』第43章で述べたように、W∀Wだと推定する。
「恋ヒし」第二音素節は、近畿語では「ヒ乙」〈孤悲思吉〉[万17 ―3987]にも「ほ」〈姑?之枳〉[斉明7年 紀歌123]にもなり、東方語では「ふ」〈故布思可流〉[万14 ―3476東歌]にも「ひ甲」〈古比之久〉[万20 ―4407防人歌]にもなる。その母音部はW¥Ωだと推定する。
そこで「恋ヒし」の「恋ヒ」はKW∀WPW¥Ωと表せる。これは、動詞語素「恋PW=KW∀WPW」に、形容詞の段付加語素¥Ωが続いたものだと考える。
(2)未然形仮定用法「恋ヒしけば」の遷移過程。
《シク活》 恋ヒしけば=恋PW+¥Ω+S¥+KYAYM+P∀
→こPW¥ΩS¥KYAYば
母音部W¥ΩにS¥Kが続く場合、W¥ΩはS¥Kの¥に母音素性を発揮させる。
→こPW¥Ω ―S¥ ―K{YAY}ば=こPW¥Ωしけ甲ば
W¥Ωでは、W¥は融合する。P{W¥}は「ヒ乙」になる。
→こP{W¥}ωしけ甲ば=こヒ乙しけ甲ば
【4】シク形容W¥Ω群
語幹末尾音素節の母音部がW¥Ωである形容詞はシク活用する。
語幹末尾母音部がW¥Ωである形容詞・形容源詞をシク形容W¥Ω群と呼ぶ。
「わビし」はシク形容W¥Ω群に属する。
絶ゆト言はば わビしみ〈和備染〉せむト[万4 ―641]
§3 形容詞未然形ずむ用法の遷移過程
【1】近畿語での形容詞未然形ずむ用法の用例
形容詞未然形ずむ用法の語尾は、近畿語では「け甲」だが、東方語では「ケ乙」にもなる。
(1)形容詞に「ず」のク語法「なく」が続く場合、語尾が「け甲」になる。
妹に恋ヒつつ 為方無け甲なくに〈奈家奈久尓〉[万15 ―3743]
(2)形容詞に「む」が続く場合、近畿語では語尾は「け甲」になる。
[近畿]《シク活》 別れなは 心悲しけ甲む〈宇良我奈之家武〉
[万15 ―3584]
《ク活》 竿取りに 速け甲む〈波夜祁牟〉人し 吾が相方に来む
[応神記歌50]
【2】東方語形容詞未然形ずむ用法「恋ふしケもはモ」
形容詞に「む」が続く場合、東方語では語尾が「ケ乙」になることがある。
[東方]《シク活》 家ロには 葦火焼ケトモ 住み良ケを 筑紫に至りて 恋ふしケ乙もはモ〈古布志気毛波母〉[万20 ―4419防人歌]
「恋ふしケもはモ」の語素構成について。「恋ふしケも」の「も」は意志助動詞「む」の連体形。「む」の連体形が「も」になる用例は東方語「吾が家ロに 行かも〈由加毛〉人モ〈母〉が」[万20 ―4406]にある(4406・4419両歌は、古事記と同様、「毛」を「も甲」に、「母」を「も乙」に、正しく使い分けている)。
「はモ」は、「問ひし君はモ〈波母〉」[記歌24]のように、体言に続いて詠嘆を表す助詞である。「恋ふしケも」の「も」が連体形なのは「はモ」に上接するためである。
「恋ふしケもはモ」は“恋しいと思うだろうなあ”の意である。
【3】形容詞未然形ずむ用法の活用語足はKYAY
形容詞未然形ずむ用法の活用語足はKYAYだと推定する。
【4】形容詞未然形ずむ用法の遷移過程
(1)形容詞未然形が助動詞「ず」のク語法「なく」に続く場合の遷移過程。
無けなく=NA+S¥+KYAY+なく→NAS ―¥K{YAY}なく
→NAs ―jK{YAY}なく=NA ―K{YAY}なく=なけ甲なく
(2)形容詞未然形が助動詞「む」に続く場合の遷移過程。
[近畿]《ク活》 速けむ=はYA+S¥+KYAY+む
→はYAS ―¥KYAYむ→はYAs ―jK{YAY}む
=はYA ―K{YAY}む=はやけ甲む
[東方]《シク活》 恋ふしケも=恋PW+¥Ω+S¥+KYAY+MΩ+AU
→こPW¥Ω ―S¥ ―K{YAY} ―MΩ{AU}
東方語では{YAY}の末尾のYは潜化することがある。
→こPWjωしK{YAy} ―Mω{AU}
=こPWしK{YAy} ―M{AU}=こふしケ乙も甲