§1 形容詞くは語法の語素構成
【1】形容詞くは語法
形容詞末尾の「く」に助詞「は」が付いて仮定条件を表す用法がある。これを形容詞くは語法と呼ぶ。
《シク活》 恋ヒしくは〈恋之久者〉 形見にせヨト 吾が夫子が 植ゑし秋萩 花咲きにけり[万10 ―2119]
《ク活用》 慰むる 心し無くは〈奈久波〉 天離る 鄙に 一日モ ある∧”くモあれや[万18 ―4113]
山田孝雄は『奈良朝文法史』100~101頁で、これらの用例を、「畏くトモ」[仁徳紀歌45]と合わせて、未然形だとする。だが、近畿語の形容詞未然形仮定用法の語尾としては「け」がある。にもかかわらず、「け」に加えて「く」までもが未然形語尾になって仮定を表すのはどうしてか。山田はそのことについては説明しない。
濱田敦は「形容詞の仮定法」『日本語の史的研究』178頁で「仮定条件を表す形容詞が未然形ではなくして連用形である」という。だが、一般に活用語の連用形は仮定条件を表さない。どうして形容詞だけは、未然形のみならず、連用形までもが仮定条件を表すのか。濱田はそのことについては説明しない。
【2】形容詞きう縮約
(1)「形容詞語幹+くは」は「形容詞連体形+助詞う+は」の縮約。
仮定条件を表す「恋ヒしくは」「無くは」などに見える「く」は、形容詞連体形語尾「き」に助詞「う=WΩW」が下接・縮約したものだと考える。この場合の助詞「う」は“場合”を意味する。
形容詞連体形「……しき」「……き」に、“場合”の意味の「う」と助詞「は」が続けば、“……しい場合は”という意味になる。これが形容詞くは語法である。
(2)「形容詞連体形+助詞う+は」が縮約して「形容詞語幹+くは」になる遷移過程。
《シク活》 恋ヒしくは=恋ヒ+S¥+KYΩY+WΩW+P∀
→こヒS¥KYΩYWΩWは→こヒS¥ ―KYωYWωWは
=こヒしKYYWWは
母音部YYWWでは、後方にあるWWはひとまず顕存し、YYは潜化する。
→こヒしKyyWWは→こヒしKwWは=こヒしKWは=こヒしくは
《ク活》 無くは=NA+S¥+KYΩY+WΩW+P∀
→NAS ―¥KYωYWωWは→NAs ―jKYYWWは
→NA ―KyyWWは→なKwWは=なKWは=なくは
このように、形容詞連体形語尾「き」に助詞「う=WΩW」が下接・縮約して「く」になることを形容詞きう縮約と呼ぶ。
(3)形容詞くは語法が平安語でウ音便になる遷移過程。
濱田敦は同書同頁で、仮定条件を表す「恋ヒしくは」などが「連用形である事の一つの傍証」として、「くは」が平安語でウ音便になることを挙げる。
一つは何せむに、同じうはあまたつかまつらむ
[『日本古典文学全集 枕草子』(底本は能因本)232頁]
だが、ウ音便が起きるのは連用形だけではない。くは語法でもウ音便が起きる。その遷移過程を述べる。
平安語でウ音便で仮定を表す「同じうは」は、形容詞きう縮約によって形成された語であり、その構成は上代語の形容詞くは語法と同様である。
同じうは=同じ+KYΩY+WΩW+は→おなじKYωYWωWは
→同じKyyWWは=同じKWWは
ウ音便になるのは、父音素K直後のWが父音素性を発揮した場合である。その場合、KWWではKWが父音部になる。父音部KWでは、Kは潜化し、Wは顕存する。
→同じkWWは=同じWWは=おなじうは
そこで私は形容詞くは語法は“形容詞連用形+は”ではなく、「形容詞連体形+助詞う+は」の縮約だとするのが妥当だと考える。
§2 形容詞くトモ語法の語素構成
【1】形容詞くトモ語法
形容詞末尾の「く」に助詞「トモ」が付いて逆接を表す用法がある。これを形容詞くトモ語法と呼ぶ。
畏くトモ〈伽之古倶等望〉 吾れ養はむ[仁徳紀16年 紀歌45]
仁徳天皇が妃の桑田玖賀媛を離縁して臣下に再婚させようとした時に、播磨国造の祖速待が応諾して詠んだ歌である。
武田祐吉は『記紀歌謡集全講』269頁で、「仮設条件法。君の愛する娘子を養うことは、おそれ多いことであっても。」と説明する。だが、どうして連用形の形の「畏く」が逆接仮定条件を表すのか、その説明はない。
相磯貞三は『記紀歌謡全註解』402頁で、「畏れ多くともの意。恐縮ですが私が養育しましょうというのである。この「とも」は、形容詞の未然形に添うた助詞で、未定の意を表わす。」という。
だが、連用形の形の「畏く」がどうして未然形といえるのか、その説明はない。また、相磯は「未定の意を表わす」というが、前後の文脈と歌意からして、速待は既に「畏し」と感じていた。「未定の意」を表すとは考えられない。
【2】「畏くトモ」の「く」は形容詞きう縮約
(1)「畏くトモ」の「く」は形容詞きう縮約。
「畏くトモ」は連体形「畏き」に、助詞「う=WΩW」と助詞「トモ」が続いて縮約したもの。「う」は“場合”を表す。形容詞きう縮約に助詞「トモ」が続けば逆接を表す。「畏くトモ」は直訳すれば“恐れ多い場合だが”であり、“おそれ多いけれども”と訳せる。
(2)形容詞きう縮約「畏くトモ」の遷移過程。
「畏くトモ」は形容詞語幹「畏」に、S¥と、連体形の活用語足KYΩYと、助詞「う=WΩW」と、助詞「トモ」が続いたもの。
《ク活》 畏くトモ=かしこ+S¥+KYΩY+WΩW+トモ
第77章で述べるように、「かしこ」の「こ」の母音部は∀U∀だと推定する。∀U∀はS¥Kの¥に父音素性を発揮させる。{∀U∀}は「お甲」を形成する。
→かしK∀U∀S ―¥KYωYWωWトモ
→かしK{∀U∀}s ―jKYYWWトモ→かしこ ―KyyWWトモ
→かしこ ―KwWトモ=かしこ ―KWトモ=かしこくトモ