§1 楽し ―シク形容ΩWΩ群
【1】「楽し」第二音素が「の甲」「ぬ」に変化する理由
「楽し」第二音素は「の甲」にも「ぬ」にもなる。
[上代1] たのしく〈多努志久〉飲まメ[万5 ―833]
[上代2] 共にし摘メば たぬしく〈多奴斯久〉モあるか
[仁徳記歌54。*「奴」は真福寺本による]
此ノ御酒ノ あやに歌だぬし〈娜濃芝〉
[神功13年 紀歌33。腹ぬち〈波邏濃知〉[紀歌28]の濃が「ぬ」であるのと同様、娜濃芝の濃も「ぬ」である]
『上代特殊仮名の本質音』第39章で述べたように、「お甲」段にも「う」段にもなる(訓仮名の場合および呼応潜顕した場合には「オ乙」段にもなる)音素節の母音部はΩWΩだと推定する。「楽し」第二音素節はNΩWΩだと推定する。
【2】「楽しく」の遷移過程
[上代1] 楽しく=たNΩWΩ+S¥+KWU→たNΩWΩS¥KwU
母音部ΩWΩはS¥Kの¥に母音素性を発揮させる。
→たNΩWΩ ―S¥ ―KU=たNΩWΩしく
ΩWΩは融合する。{ΩWΩ}は「お甲」を形成する。
→たN{ΩWΩ}しく→たの甲しく
[上代2] ΩWΩで、Wは顕存し、Ωは二つとも潜化する。
楽しく→たNΩWΩ ―S¥ ―KU=たNωWωしく=たNWしく=たぬしく
【3】シク形容ΩWΩ群
語幹末尾母音部がΩWΩである形容詞はシク活用する。これをシク形容ΩWΩ群と呼ぶ。
§2 か黒し・尊し ―ク形容ΩOΩ群
【1】「取る」第一音素節は一歌の中で「と甲」にも「ト乙」にもなる
秀垂りト乙〈登〉らすモ 秀垂りと甲〈斗〉り 固くと甲〈斗〉らせ 下固く 弥固くと甲〈斗〉らせ 秀垂りと甲〈斗〉らす子
[雄略記歌102。「秀垂り」は“美酒”のこと]
【2】か黒し・尊し
ク活用形容詞語幹末尾の音素節にも「お甲」段・「オ乙」段が両用されるものがある。
(1)か黒し(かぐろ甲し・かぐロ乙し)。
[上代1] かぐろ甲き〈迦具漏伎〉髪に[万5 ―804]
[上代2] かぐロ乙き〈可具呂伎〉髪に[万15 ―3649]
(2)尊し(たふと甲し・たふト乙し)。
[上代1] たふと甲く〈多布斗久〉ありけり[記上巻歌7]
[上代2] たふト乙かり〈多布止可理〉けり[仏足石歌15]
【3】「か黒き」第三音素節が「ろ甲」にも「ロ乙」にもなる理由
「取る」第一音素節、そして「か黒し」「尊し」の第三音素節のように、「お甲」段にも「オ乙」段にもなる音素節の母音部は、『上代特殊仮名の本質音』第36章で述べたように、ΩOΩだと推定する。
[上代1] ΩOΩが融合すれば「お甲」を形成する。
か黒き=かぐRΩOΩき→かぐR{ΩOΩ}き=かぐろ甲き
[上代2] ΩOΩで、完母音素Oが顕存し、兼音素Ωが潜化すれば「オ乙」を形成する。
か黒き=かぐRΩOΩき→かぐRωOωき=かぐROき=かぐロ乙き
【4】「か黒し」がク活用になる理由
か黒き=かぐRΩOΩ+S¥+KYΩY→かぐRΩOΩS¥KYωY
母音部ΩOΩは¥に父音素性を発揮させる。
→かぐRΩOΩS ―¥KyY→かぐRΩOΩs ―jKY
[上代1] ΩOΩが融合する場合。
→かぐR{ΩOΩ} ―KY=かぐろ甲き甲
[上代2] ΩOΩが潜顕する場合。
→かぐRωOω ―KY=かぐRO ―KY=かぐロ乙き甲
【5】ク形容ΩOΩ群
語幹末尾母音部がΩOΩである形容詞はク活用する。これをク形容ΩOΩ群と呼ぶ。
「尊し」「黒し」はク形容ΩOΩ群に属する。
§3 ク活用「畏し」 ―ク形容∀U∀群
【1】「畏し」の遷移過程
《未然》 ずむ用法。 かしこけメ〈可之古家米〉やモ[万19 ―4235]
《連体》 かしこき〈箇辞古耆〉ロかモ[仁徳紀22年 紀歌47]
「かしこし」第三音素節は「こ甲」以外の音素節に変化しない。『上代特殊仮名の本質音』第51章で述べたように、「お甲」以外に変化しない母音部の本質音は∀U∀だと推定する。そこで「かしこし」語幹末尾音素節「こ甲」の母音部は∀U∀だと推定する。
《未然》 畏けメ=かしK∀U∀+S¥+KYAY+メ
→かしK∀U∀S¥KYAYメ
母音部∀U∀は¥に父音素性を発揮させる。
→かしK∀U∀S ―¥KYAYメ→かしK{∀U∀}s ―jK{YAY}メ
→かしK{∀U∀} ―K{YAY}メ=かしこ甲け甲メ
【2】ク形容∀U∀群
語幹末尾母音部が∀U∀である形容詞はク活用する。これをク形容∀U∀群と呼ぶ。