【1】「うむがし」の用例
① 聖武天皇は藤原不比等の娘光明子に皇后の位を授ける際の宣命で、元明天皇の言葉を引用する。元明天皇は、不比等の勤務状況を「うむがしき事」と評する。
其ノ父ト侍る大臣ノ、皇我が朝を助ケ奉り、輔ケ奉りて、頂き恐み供∧奉りつつ、夜半曉時ト休息モふコトなく、浄き明かき心を持ちてははとひ供∧奉るを見し賜∧ば、其ノ人ノうむがしき〈宇武何志伎〉事、款しき事をつひに得忘れじ。[続紀天平元年宣命7]
② 聖武天皇は、不比等の妻県犬養橘三千代の勤務状況を「うむがしみ」と評する。
県犬養橘夫人ノ天皇ノ御世重ねて明かき浄き心をモちて仕∧奉り、皇朕が御世に当たりてモ怠り緩ふ事なく、助ケ仕∧奉り、しかノミにあらず、祖父大臣ノ殿門を荒し穢す事なく守りつつありし事、忠しみ、うむがしみ〈宇牟賀斯美)、忘れたまはず(下略)。
[続紀天平勝宝元年宣命13]
③ 元正天皇は、不比等が歴代天皇の政治を輔佐した状況を「うむがしみ辱づかし」と思って、太政大臣に任じようとした。
祖父大臣ノ明かく浄き心モちて御世累ねて天下申し給ひ、朝庭助ケ仕∧奉りたぶ事を、うむがしみ〈宇牟我自弥)〉辱づかしト念ほし行して、挂ケまくモ畏き聖ノ天皇ノ朝、太政大臣トして仕∧奉れト勅りたまひけれド(下略)。[続紀天平宝字四年宣命26]
【2】「ははとひ」の意味を参考にして「うむがし」の意味を探る
宣命7で、元明天皇は“私は不比等が「ははとひ〈波波刀比〉」つかえまつるのを見て、うむがしき人だと思った”と言った。そこで、まず「ははとひ」の意味を探りたい。『時代別国語大辞典上代編』「ははとひ」の項は「母問ヒが妥当か。」という。私はこの説に賛同し、「ははとひ」は「母問ひ」だと考える。「母問ひ」の原義は“(子が)母に(「私にできることはありませんか」などと)問う”ことで、転じて“母に孝行する”意になる。
同書同項は「敬う意の連用修飾語となった」と説明するが、この説には同意できない。「母問ひ」は“敬う”の意には転じない。また、「母問ひ」は「供∧奉る」にかかる連用修飾語ではない。「母問ひ供∧奉る」では、「母問ひ」が主たる動詞であり、「供∧まつる」は補助動詞にすぎない。
私見を述べよう。元明天皇は「母問ひ」=“(不比等は)よく母(元明天皇)に孝行を尽くす”と言った。“自分は不比等の母の如き存在である”という趣意である。
光明子を皇后に立てる際には“光明子は皇族でないから皇后に立てるべきではない”と反対する臣下たちもいた。この反対論を押さえるために、聖武天皇は元明天皇の「母問ひ」を引用した。“元明天皇は不比等の母の如き存在だ。だから光明子は元明天皇の孫娘同然だ”と、反対派の臣下たちに説諭したのである。
【3】「うむがし」の語素構成・意味
形容詞語幹末尾には、「恥づかし」の「か」のように、助詞が含まれることがある。このことから類推して、「うむがし」の「が」は助詞「が」だと考える。
「が」の直前にある「うむ」は何か。
元明天皇は“不比等は「母問ひ」したから、「うむがし」と思う”と言った。その「母問ひ」は“母親孝行”のことである。そこで、「うむ」は孝行に関係する意味だと考える。孝行に関係する「うむ」といえば、“親が子を生む”の「生む」である。「うむがし」の「うむ」は「生む」だと考える。
「生むがし」は“生まれた子は生んでくれた親に孝行するが、そのような”であり、“親孝行な”の意味だと考える。
宣命7には「うむがしき事、いそしき事」とある。「うむがし」は“親孝行な”であり、「いそし」は“忠し”だから、まとめれば“孝・忠”である。元明天皇は不比等を“孝・忠”だと評したのである。
元明天皇の臣下たちの中には不比等以外にも忠孝な者は多くいただろう。その中で取りわけ不比等が「生むがしき」(孝)・「忠しき」(忠)と評されるのはどうしてか。
不比等の父鎌足は大きな業績を残した。仮に不比等が凡庸な臣下であれば、世人は“父とは大違いだ。父は黄泉で嘆いているだろう”などと酷評する。これでは父の名声を辱めることになり、親不孝である。だが、不比等は夜半も曉時も休むことなく勤務に励んだので賛嘆されることはあっても誹謗されることはなかった。不比等は父鎌足の名を穢すことはなかった。元明天皇はそのことを嘉して不比等を「生むがし」=“孝”と評したのである。
宣命13の「生むがし」について。三千代は歴代天皇に仕えて精勤した。これは忠たることだから、聖武天皇は三千代を「忠し」と評した。また、三千代は夫不比等の殿門を穢すことなく守ったが、これは舅鎌足の名を穢すことなく守ったのと同じことだから孝である。それで聖武天皇は三千代を「生むがし」=“親孝行”と評した。
宣命26の「生むがし」について。不比等は歴代天皇の政治を輔佐した。これは「忠=いそし」であるが、父鎌足の名声を守ったという面からいえば、「孝=生むがし」である。それで元正天皇は不比等を「生むがし」と評した。
【4】「うむがしき」の遷移過程
「生むがしき」は四段動詞「生む」に、助詞「が=G∀」と、S¥と、KYΩYが続いたもの。
語幹「生むが」の末尾母音部は∀だから、「生むがし」はシク形容∀群に含まれる。
生むがしき=生む+G∀+S¥+KYΩY→うむG∀S¥KYωY
→うむ ―G∀ ―S¥ ―KyY=うむがしき甲