§1 白し ―ク形容WAW群
【1】「白」第二音素節が「ろ甲」「ら」「る」になる理由
「白」は、語幹だけで後続語を修飾することもあり、形容源化語素S¥と活用語足に上接して形容詞「しろし」にもなる。
語幹「白」だけで後続語を修飾する場合には、近畿語では「しろ甲」または「しら」になるが、東方語では「しる」になることもある。
[近畿1] 白〈斯漏〉栲ノ 袖着そなふ[雄略記歌96]
[近畿2] 白玉〈斯良多麻〉ノ 君が装ひし 尊くありけり
[記上巻歌7]
[東方] 白羽〈志留波〉ノ磯ト に∧ノ浦ト[万20 ―4324防人歌]
万15 ―3751および『歌経標式』には「しロ乙た∧」という用例があるが、凡例に述べたように、これは上代特殊仮名の本質音を定める資料とはしない。
「白」の原義は“白色”だと考える。顔面について用いられる場合には、転じて“表情が輝いている”“楽しい”の意味になる。
「白」の本質音は「しRWAW」だと推定する。
[近畿1] 白栲=しRWAW+TA∧→しRWAWTA∧
WAWとTAの間で音素節が分離する。WAWは融合して「お甲」になる。
→しR{WAW} ―TA∧=しろ甲た∧
[近畿2] 白玉=しRWAW+TDAま→しRWAWTDAま
RWAWが後続語と熟合した場合、末尾の兼音素Wは、父音素性を発揮し、Wで始まる音素節を形成することがある。このような遷移をWの後方編入と呼ぶ。
→しRWA ―WTDAま
母音部WAでは、完母音素Aは顕存し、兼音素Wは潜化する。
WTDAでは、WTDが父音部になる。WTDでは、兼音素Wと父音素Dは潜化し、父音素Tは顕存する。
→しRwA ―wTdAま=しRA ―TAま=しらたま
[東方] 白羽=しRWAW+PA→しRWAWPA
東方語では、母音部WAWで、WがAを双挟潜化することがある。
→しRWAW ―PA→しRWaWは=しRwWは→しRWは=しるは
【2】「白し」の連体形が「しろき」になる遷移過程
しろ甲き〈斯路岐〉腕[記上巻歌3b]
おモしろ甲き〈於母之楼枳〉 今城ノうちは[斉明4年 紀歌119]
《連体》 白き=しRWAW+S¥+KYΩY→しRWAWS¥KYωY
母音部WAWはS¥Kの¥に父音素性を発揮させる。
→しRWAWS ―¥KyY→しRWAWs ―jKY
→しR{WAW} ―KY=しろ甲き甲
【3】ク形容WAW群
語幹末尾母音部がWAWである形容詞はク活用する。これをク形容WAW群と呼ぶ。
§2 著し・いちしろ甲し ―ク形容WOW群
【1】「著し」「いち著し」の「著」の第二音素節素が「る」にも「ろ甲」にもなる理由
“顕著な”の意味の形容詞「しるし・しろ甲し」がある。この語を「著し」と表記する。「著し」に関しては「とほしロし」の「しロし」もあるが、これについては§3で述べる。
[上代1] 雲だにモ しるく〈旨屡倶〉し立たば[斉明4年 紀歌116]
[上代2] いちしろ甲く〈伊知之路久〉出でぬ 人ノ知る∧”く
[万17 ―3935]
【2】「著し」の連用形が「しるく」「しろく」になる理由
「著し」第二音素節の本質音はRWOWだと推定する。
[上代1] 著く=しRWOW+S¥+KWU→しRWOWS¥KWU
母音部WOWはS¥Kの¥に父音素性を発揮させる。
→しRWOWS ―¥KwU→しRWOWs ―jKU
WOWではWがOを双挟潜化する。
→しRWoW ―KU→しRwW ―KU=しRW ―KU=しるく
[上代2] いち著く=いちしRWOW+S¥+KWU
→いちしRWOWS ―¥KwU→いちしRWOWs ―jKU
WOWは融合して「お甲」を形成する。
→いちしR{WOW} ―KU=いちしろ甲く
§3 遠著し
【1】「トほしロし」の用例
『万葉集』に「トほしロ乙し」という語がある。
明日香ノ 古き都は 山高み 川トほしロし〈登保志呂之〉
[万3 ―324]
山高み 川トほしロし〈登保志呂思〉 野を広み 草コソ繁き
[万17 ―4011]
【2】“白色”の意味の「白し」は“顕著な・あざやかな”の意味の「著(しろ)し」と同源語か異源語か
「トほしロし」の語素構成や意味を考えるにあたっての重要な分岐点は、「白し」と「著し」を同源語と考えるが異源語と考えるか、である。
本居宣長は「トほしロ」の「しロ」の意味を“白色”とはせず、「あざやか」だとする。本居は『万葉集玉の小琴』巻三で「とほしろしは、あざやかなる事也、凡てあざやかなるをしろしといふ、いちじろきも是也」という。上代語には“白色”の意味の「しろ」の用例はいくつもあるが、本居はそれらを引用しない。本居は「歌に遠白体といふも、物あざやかなるをいへり」というが、これは、“(後代には、上代語の「トほしロ」に「遠白」の漢字を当てて「遠白体」という用語を作ったが、その)「遠白体」の「白」は“白色”の意味はなく、「あざやか」の意味だ”という趣旨である。本居は「白し」と「著し」を異源語と認識している。
他方、橋本進吉は「「とほしろし」考」(『橋本進吉博士著作集第五冊』所収)160頁で、「白又は顕著の意を有する「しろし」及、それから出たと覚しい「いちじろし」の「しろし」」という。橋本は“白色”の意味の「白し」と“顕著な”の意味の「いち著し」は同源語だと認識している。
私は、「白し」第二音素節母音部をWAW、「著し」第二音素節母音部をWOWだと推定した。「白し」と「著し」は、本質音が異なるから異源語である。
【3】「トほしロし」の「しロ」は“顕著な・あざやかな”の意味の「著(しろ)し」と同源語か異源語か
橋本は「トほしロ乙し」の「しロ乙」は“あざやかな・顕著な”の意味の「著(しろ)し」とは別の語だとする。橋本は同書160頁でいう、「「とほしろし」の「しろし」と「しろし」(白)及び「いちしろし」の「しろし」とは同音ではなく、随つて、之を同語と認める事は容易に許されないのである」。
私は橋本説には従えない。上代語には、同音でなくても同一語だという事例がいくつもある。前章で述べたように、「かぐろ甲し」と「かぐロ乙し」とでは、「ろ甲」「ロ乙」の相違があるが、両者は同一語である。
「ろ甲」と「ロ乙」の相違があっても、「トほしロし」の「しロ乙し」と「いちしろ甲し」の「著し」は同一語である可能性がある。
可能性だけではない。「遠」に「著し=しRWOWし」が続く場合には「トほしロ乙し」になるのが自然なのである。その理由を以下に述べる。
【4】「遠著し」が「トほしロし」になる遷移過程
(1)「遠+著し」が「トほしロし」になる遷移過程。
「遠」第一音素節はTOだと推定する。
遠著し=TOP¥O¥+しRWOW+S¥+¥
→TOP¥O¥しRWOWS¥¥
TOのOと、¥O¥と、WOWは呼応潜顕し、三者ともOになる。¥O¥では、¥は二つとも潜化する。WOWでは、Wは二つとも潜化する。
→TOPjOjしRwOwSj¥=TOPOしROS¥=ト乙ほしロ乙し
「遠著し」の読みが「トほしロ乙し」になるのはごく自然な遷移なのである。よって、上代語「トほしロ乙し」の語幹は「遠」に「著」が続いたものと考えるのが順当である。
(2)「面白し」は「おモしロ乙し」にはなりえない。
「遠著し」は「トほしロ乙し」になるが、「面白し」は「おモしロ乙し」にはなりえない。
「面」の本質音はΩM¥O¥であり、「白し」は「しRWAWし」である。
面白し=ΩM¥O¥+しRWAW+し→ΩM¥O¥しRWAWし
初頭はΩであり、次のM¥O¥にはOがあるから、これら二音素は共に「オ」段になる。だが、第四音素節母音部WAWにはOもΩもないから「オ乙」段になりえない。WAWは融合して「お甲」になる。
→ΩMjOjしR{WAW}し=おモしろ甲し
「遠著し」の「著」と「面白し」の白は異なる語だから、前者に「ロ乙」が現れ、後者に「ロ甲」が現れるのは当然なのである。
【5】「遠著し」の意味
橋本進吉は、神代下紀第十段本文の「集大小之魚」の「大」に付された、応永年間の訓点「止乎之呂久」(トをしロく)や寛文年間の訓点「トヲシロク」によって、「トほしロし」の意味を“大”“雄大”だとする。だが、「トほしロし」第二音素節「ほ」を「を・ヲ」と読むような後代の訓点に依拠して上代語「トほしロし」の意味を定めるのは適切ではない。
「トほしロし」は「遠+著+し」だから、“遠くからでも顕著な”“遠くからでもくっきり見える”の意味とするのが順当である。