§1 語幹が「四段動詞語素+助詞あ」であるシク活用形容詞「懐かし」 ―シク形容A¥群
【1】四段動詞語素に助詞「あ」が付いて形容詞・形容源詞の語幹になる
(1)「懐K」に「あ」が付いた形容詞語幹。
いや懐かしく〈奈都可之久〉 相ひ見れば[万17 ―3978]
(2)「痛P」に助詞「あ」が付いた形容詞語幹。
己が身し 痛はしければ〈伊多波斯計礼婆〉[万5 ―886]
(3)「盈P」に助詞「あ」が付いた形容詞語幹。
望月ノ 盈はしけむ〈多田波思家武〉ト[万13 ―3324]
(4)「潤P」に助詞「あ」が付いた形容詞語幹。
子肌媛女は 争はず 寝しくをしゾモ 潤はしみ〈宇流波志美〉 思ふ
[応神記歌46]
上代語「うるはし」は、“(他者が)美麗な”の意ではなく、“(自分が)十二分に満足している”の意(『古事記歌謡全解』記歌30の段参照)。
【2】「懐かしく」「痛はしければ」の遷移過程
「懐かしく」は、動詞語素「懐K」に、助詞「あ=A¥」と、形容源化語素S¥と、活用語足KWUが続いたもの。
《連用》 懐かしく=懐K+A¥+S¥+KWU→なつKA¥S¥KWU
母音部A¥はS¥Kの¥に母音素性を発揮させる。S¥の前後で音素節が分離する。
母音部A¥では、完母音素Aは顕存し、兼音素¥は潜化する。
→なつKA¥ ―S¥ ―KwU→なつKAj ―S¥ ―KU=なつかしく
《已然》 痛はしければ=いたP+A¥+S¥+KYAYRY∀YM+P∀
→いたPA¥ ―S¥ ―K{YAY} ―R{Y∀Y}{MP}∀
→いたPAj ―S¥ ―け甲れば=いたはしけ甲れば
【3】シク活用「笑まはし」の遷移過程
さ百合ノ花ノ笑まはしき〈恵麻波之伎〉かモ[万18 ―4086]
「笑まはしき」は、動詞語素「笑M」に、継続助動詞「ふ=OAYP」と、助詞A¥と、S¥と、活用語足が続いたもの。
笑まはしき=笑M+OAYP+A¥+S¥+KYΩY
→ゑMOAY ―PA¥ ―S¥ ―KYωY→ゑMoAy ―PAj ―S¥ ―KyY
=ゑMA ―PA ―S¥ ―KY=ゑまはしき甲
【4】シク形容A¥群
語幹末尾音素節の母音部がA¥である形容詞はシク活用する。
語幹末尾母音部がA¥である形容詞・形容源詞をシク形容A¥群と呼ぶ。
§2 上代語「ヨロコぼし」が平安語で「ヨロコばし」に変化する理由
【1】上代語「ヨロコぼし」の遷移過程
《終止》 嬉し、ヨロコぼし〈与呂許保志〉トなモ見る。
[続紀神護景雲三年宣命46]
平安語には連体形「ヨロコボシキ」[東大寺本地蔵十輪経「喜」元慶点]の用例があるので、「ヨロコぼし」はシク活用だと考える。
上代語「ヨロコぼし」は上二段「ヨロコぶ」から派生した形容詞であり、両者とも「良+助詞ロ+コBW=YYO+R∀Ω+コBW」を含むと考える。
上二段動詞「恋ふ」から派生した形容詞「恋ヒし」の語素構成は、「恋ふ」の動詞語素「恋PW」に、段付加語素¥Ωと、S¥と、活用語足が続いたものである。これと同様、上代語「ヨロコぼし」の語素構成は、「YYO+R∀Ω+コBW」に、¥Ωと、S¥と、活用語足が続いたものだと考える。
《終止》 良ロコぼし→YYO+R∀Ω+コBW+¥Ω+S¥+¥
→YYOR∀ΩコBW¥Ω ―Sj¥
Oと、∀Ωと、コの母音部と、W¥Ωは呼応潜顕し、すべて「オ乙・お丙」段になる。
→YyORαΩコBwjΩし=YORΩコBΩし=ヨ乙ロ乙コぼし
【2】平安語「良ロコばし」の遷移過程
上代語の形容詞「ヨロコぼし」は平安語では「ヨロコばし」に変化する。
《連体》 カク伝ヘ奉ツル事、喜バシキカナヤ。[今昔物語11 ―28]
上代語の「ヨロコぼし」は、上二段動詞「ヨロコぶ」から派生した形容詞だから、その語幹の中に「ヨロコBW」が含まれる。その末尾にWがあるため、段付加語素¥Ωが用いられた。
ところが上二段「ヨロコぶ」は平安語前期に四段動詞に変化する。これは、第48章で述べたように、「ヨロコBW」のWが潜化し、動詞語素の末尾が父音素になったからである。
上代語「ヨロコぼし」では、動詞語素「ヨロコBW」の末尾にWがあったから、段付加語素¥Ωが続いた。だが平安語ではそのWが潜化したから、段付加語素¥Ωは用いられない。それで、助詞「あ=A¥」が用いられた。
《連体》 良ロコばしき→ヨロコB+A¥+S¥+KYΩY
→ヨロコBA¥ ―S¥ ―KYωY→ヨロコBAjしKyY=ヨロコばしき
§3 語幹が「下二段動詞語素+助詞あ」であるシク活用形容詞「痩さし」
【1】下二段動詞語素に助詞「あ」が付いた形容源詞語幹・形容詞語幹
(1)「痩S」に「あ」が付いたもの。
家はあれト 君を痩さしみ〈夜佐之美〉 表さずありき[万5 ―854]
『日本古典文学大系万葉集二』438頁補注が「ヤサシは痩すという語の派生語」というとおり、「痩さしみ」は下二段「痩す」[やせ〈夜勢〉万15 ―3586]から派生した語である。
(2)「疲R」に「あ」が付いたもの。
朕は御身疲らしく〈都可良之久〉大坐します
[続紀神護景雲三年宣命45]
(3)「賞D」に「あ」が付いたもの。
賞だしかり〈米太志加利〉けり[仏足石歌15]
(4)「燻B」に「あ」が付いたもの。
古に 有りけるわざノ 燻ばしき〈久須婆之伎〉 事ト言ひ継ぐ
[万19 ―4211]
「燻ぶ」は“香木を熱して香りをくゆらせ、その香りの霊妙な効能により、心を癒やす”こと。「くすぶ」から派生した「燻ばし」は“霊妙な”の意味になる。
【2】「痩さしみ」の遷移過程
「痩さしみ」の語幹「痩さ」は、動詞語素「痩S」に助詞「あ」が続いたもの。
痩さしみ=痩S+A¥+S¥+MY→やSA¥S¥MY
母音部A¥は、S¥Mの¥に母音素性を発揮させる。
→やSA¥ ―S¥ ―MY→やSAjしみ甲=やさしみ甲
§4 語幹が「上二段動詞語素+助詞あ」であるシク活用形容詞「悔やし」 ―シク形容WA¥群
【1】「悔やしき」の遷移過程
上二段「悔ゆ」から派生した「悔やし」がある。
今ゾ 悔やしき〈久夜斯岐〉[応神記歌44]
「悔やし」の語幹は、上二段動詞の語素「悔YW」に、助詞「あ=A¥」が続いたもの。
悔やしき=悔YW+A¥+S¥+KYΩY→くYWA¥S¥KYωY
音素節YWA¥ではYが父音部になり、WA¥が母音部になる。
母音部WA¥はS¥Kの¥に母音素性を発揮させる。
→くYWA¥ ―S¥ ―KyY
母音部WA¥では、完母音素Aは顕存し、他は潜化する。
→くYwAjしKY=くYAしき甲=くやしき甲
【2】シク形容WA¥群
語幹末尾音素節の母音部がWA¥である形容詞はシク活用する。これをシク形容WA¥群と呼ぶ。